その人の芸は進歩が止ります。そうして徐々に自分のかち得た人気というものが薄らぐのです。この俳優のスター心理というものは、決して現代日本だけの現象でありません。どこの国でも、いつの時代でも、そういう傾向があります。これは一体どういうわけかと考えて見ると、これには実際無理もない、恕すべき点があるのです。自分の偉くなった理由について自ら顧るということが、俳優の場合には実にむずかしいのです。さっきも云ったように、俳優の自意識の問題もありますが、それよりも自分の芸というものについて、自分自身でその価値を厳密に判断することができない。これは俳優という仕事の一番の弱味でもあり、また、その為に独特の自信がつくのであります。もう一つは俳優の芸術というものは、瞬間的なものです。これを押しすすめて行くその俳優が舞台を退けば、あとには名前だけしか残らない。記録にとってとれないこともありませんが、まず俳優としては、その作り出したものが永久の生命をもつものでありません。ここに若干また、刹那的満足を追う傾向が生れます。
 そこで、私はここで皆さんにこう云って置きたい――「よろしい。スターになったら、威張りなさい。幾らでも、偉い顔をなさい。しかし、その偉い顔の中にも、なお且つ人を反撥させない魅力がなくてはいけません。堂々と、しかも程よく、存分に、スターたるの悦びを満足なさい」
 そのためには、やはり、人間としての巧まない魅力がなければ駄目です。ところが、そこまで人間としての修業が出来ている女優が、フランスにありました。このサラ・ベルナァルは、実に世界で芝居が始って以来の大スターであります。
 実にスターらしいスターであり、また同時に、自分がスターであることの満足を一生持ち続けていた女優です。そのスターらしさというものは、誠に普通の常識では考えられないくらい見事なものでした。その云うこと、なすことは実に大袈裟、傍若無人である。その辺の若い作家などは、そばへ行くと頭をなでられる。男はすべて、自分の坐っている足下に跪いて御機嫌をとらなければ承知しない、というような傍若無人さであったけれども、そのスター振りのなかに、大女優としての貫禄とその魅力、殊に女性としての輝くばかりの美しさを、絶えず保っていたということが、サラ・ベルナァルをまったく奇蹟的な例外的な存在としたのです。サラ・ベルナァルより才能に於てもまたその素質に於ても劣っていて、しかも偶然のいろいろな機会に恵まれて、一躍スターになったような俳優が、サラ・ベルナァルを真似すれば、それは滑稽以上のものではない。周囲のものは、蔭で舌を出して笑っていることでしょう。そういう光景も私はやはり見ております。
 大体これで皆さんに話しておきたいことは云い尽しましたが、もう一つ附け加えますと、職業人としての誇りと嗜みというなかで、いわゆる、役の軽重という問題についてお話したいと思います。
 よく芝居なり映画なりで、役が軽すぎるとか小さすぎるとかいうので、役者がぶつくさ云う話を聞く。勿論どんな人でも、自分の演ずる役が、脚本の中で重大な役であることは嬉しいでしょう。他の人が重要な役をつとめて、そうして自分とそれ程才能も違わないと思うのに、自分の方が小さな、いわゆるつまらない役をやるということは、その俳優にとっては幾らか自尊心を傷けられるように感じられるかも知れない。その不満を公然表明する。そこで役が揉めるということになる。これは恐らく芝居始って以来、興行者、或は演出家が、この俳優の役もめには手を焼いているのであります。一般から云っても、今日まで少しもこの風習は改まっていない。ただ新劇だけが殆どその風習を改めました。これもただ、そういうことをしてはならないのだという自戒で、自分を戒めて悶着を起さないだけで、内心はどうかわかりません。まだそこまで保証はできません。が、とにかくこの種の悶着は新劇ではなくなりました。経験も古く、技倆も上だというような俳優が、時には脇役を演じ、或は端役に廻る。それが新劇では一応無理なく納っています。所謂スターシステムの弊害を認め、適材適所の原則が配役の根本であることを認めたからです。この役の軽重という問題を、ひとつなんとかして、俳優諸君が自分の納得の行く理窟と感情とで解決しておかなければならない。理窟はもうはっきりしています。感情の上では、これがいかに人情とはいいながら、さもしい人情であるかを反省すればいいのです。本当に芝居という芸術を愛し、これに全生命を捧げることができれば、そうしてこの仕事に最も必要な「全体の効果」ということをよく呑み込めば、自分に振り当てられた役割を、それがどんなものであろうと、完全に生かすことの喜びと誇りが、一切の情熱をかり立てる筈です。役不足は、多くは人間としての、又は芸術家としての教養の不足から来るものであることを、特に、私は強調しておきたい。つまり本当の自信がないからです。人間としての教養は、団体の仕事、そのなかでの一つの役割というものの性質をはっきりわからせてくれます。芸術家としての教養によって、演劇或は映画というもののなかに於て俳優の占めている地位、つまりその芸術的な領域と、その俳優の個々の特性を十分に理解する能力が得られるからです。そういう教養のない場合には、逆に俳優の個々人が自分一人の利害ということしか考えられないからだと私は思います。
 これで私の担当の俳優倫理という話は終ったわけでありますが、なにしろまだ日本では新らしい俳優という観念と、過去の因襲的な芝居道とが結び付いておりまして、まだ現代の理想的な俳優のタイプというものさえ、はっきりと一般の人の頭には描かれていない。ですから、俳優の倫理という問題を考えるについても、これからの新しい芝居、新しい映画、そういう世界で、もっともっと、いろいろな大事な問題がこれから提出されるだろうと思う。そういういろいろな問題を、諸君は、ただ、在来の古い考え方で以て片附けないようにして戴きたい。恐らく、もう既に私自身にさえ想像のつかないような新らしい問題、誰も今までに解決していない問題が、次ぎ次ぎに生じつつあると思います。そういう問題を、諸君は、個人個人で、更にお互の間でよく検討して、そうして今後の日本の新らしい俳優倫理というものを打ち立てることが、諸君の努力でありましょう。私はただそういう問題を考える緒口を皆さんに示したというにすぎません。



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「演劇入門」要書房
   1952(昭和27)年11月5日
初出:「演劇映画研究所での講義」
   1940(昭和15)年4月23日開始
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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