先ず美徳とされている。また一方では、あまり喜怒哀楽を顔に出さぬ方が奥床しく、立派だという風な考え方もあるようです。日本人の風習がそれを教えている。しかし、俳優の場合には、それが意識的にそうであるのは差支えないとして、素質的にそうなってしまっていては、これは少々困るのです。俳優はその性格としてエキスペンシィヴであるということ、つまり、自分の感情を思いのまま、外にはっきり見せる、そういう性質がむしろ得なのです。そのエキスペンシィヴであるということが、俳優の一つの特権であっていいのです。普通の人ならば、そうまで要求されない感情の動きの現わし方が、俳優の場合には、少し極端でも許されると私は思うのです。なぜなら、そういう訓練を平生から心がけておかなければ、舞台の演技は生彩を失います。
普通の人なら、うまく云えないと思って黙っているようなことでも、俳優はどしどし云ってみるがよろしい。普通の人は自尊心から、或は謙遜から物をいいしぶる。俳優には、その自尊心も、謙遜も、時には無用です。ものを外に素直に出すということを心掛ける必要がある。これは普段の生活に於て心懸けるというよりも、そういう性質を持っているということが大事なことです。そういう性質を持たない人は、俳優として非常に損をします。それは或る場合に、人の眼をみはらせるでしょう。しかし、そういう性質を持っているということを、ちっとも苦にすることはないということです。もちろん程度問題ですけれども、かりに非難を受けても、それほど気にすることはない。これは俳優の特権である、俳優として恵まれた性質であると思って差支えない。だから悲しい時は率直に泣き、怒りたい時には率直に怒るということが、俳優としてはいいことです。これは何か知ら、日本人の道徳と矛盾をするように見えましょう。しかし、それは見えるだけなのです。
もう一つは、今の話と関係がありますけれども、自意識の過剰を清算しなければいけない。自意識というのは、人間がいろいろなことをしたり喋ったりする時に、自分がしているのだ、自分が喋っているのだ、ということを絶えず頭に置いて、それを監視していることです。監視しているばかりでなく、絶えず自分を批判していることです。自分の言ったり、したりすることを絶えず批判する結果、勢いそれを抑えつける、この抑えつけるということが自意識の過剰です。誰でも、普通の人間ならば、自意識がないということはないのです。自意識が全くないというのはどういう人間でしょうか。まず動物に近い阿呆です。これはじっさい自意識がない。自分が何をやっているのかまるで知らないような状態です。よくまあ平気であんな恥しいことができる、というが、それは自意識の欠乏しているということを云い現わしています。
ところが自意識の普通のあり方というのは、自分がこうしているのだということを絶えず頭の中で考え、そうしてそれを批判し、自分の心に手綱を附けてこれを御して行くことです。自分が何か拙いことをいおうとすると、手綱を控える。故なく躊躇すると、手綱をゆるめて自分を前に出す。自意識が過剰だとその手綱をいつでも引締めている。皆さんは人が馬に乗って居るのをよく御覧になるでしょう。或は自分で馬に乗る方もあるかも知れないが、馬は首をうしろへ引いて口からあぶくを出す。ぐっと手綱を引締められているからです。ああいう状態に人間の心があるのが、自意識過剰の状態です。
この自意識過剰の状態が、ある場合には羞みとなり、また、てれるということになる。しかし、羞みとか、てれるとかいうことは、ある瞬間、自意識が過剰に陥る場合ですけれども、これは誰でもあることで、別に不思議なことではない。羞んだりてれたりしない人間は恐らく一人もいないでしょう。これは別に問題にはならない。殊に若い女の人の羞みというものは、極く自然な美しいものとされています。男の人でもてれるということは、なかなか愛嬌のあるものです。しかし、この羞みも照れるも、極端になると始末がわるい。日本人くらい、その点で、ひどく羞み、照れる国民はないのです。これは日本人が、世界のどこの民族に比べても、自意識が多すぎるという証拠です。
そこで、日本人全体を標準にして考えると、適度な自意識をもつということが先ず必要ですが、俳優の場合は、更に、普通の人よりは少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識が過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも、少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識の過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも自意識が幾分少くても、それほど、その俳優の欠点にはならない。これは勿論、舞台の演技を中心として云っているのです。舞台に立つうえから、どうしても自意識過剰が邪魔になる。しかし、日常の行動や素行というような問題で、一般の人から俳優が不信の眼で見られるのは、そういうところにも原因があることを注意しなければなりません。つまり、そういう特質を自分で許しすぎる為でもある。俳優の場合には、それ自身欠点ではないというような性質が、どうかすると、その生活を乱すのですが、これもその例の一つです。
以上三つの点で、普通の人のいう道徳というものと、一見矛盾する点があるように思われます。これは極く表面的な意味で矛盾するように見えるのであって、本質的に、人及び芸術家としての理想が矛盾するのではありません。
更に、この、俳優の、人及び芸術家としての理想の中には、ただ人間として人格の完成を目指し、芸術家として美の創造を目標とするということ以外に、一つの大事な役割の達成があります。それは社会に於ける俳優の文化的役割というものです。俳優も他の文化部門の人達と同様に、世の中の進歩、文化の発達ということに寄与しなければならない。その寄与することが、俳優の一つの大きな役割です。勿論、演劇という芸術を通じて、俳優は演技によってそういう役割を自然に果しているのですけれども、しかし、演劇というものは、俳優一人でできるものではない。俳優は既に演劇という一つの文化的役割を持っている仕事に従事しているのですから、それだけで文化的役割は或る部分果しているのですが、殊に俳優としての文化的役割がこの他にあります。それはどういうことかというと、次の三つであります。
俳優は先ず、その俳優が優れた俳優であり、多くの観衆から讃美の的となっていればいるほど、何等かの意味に於て一般の民衆のお手本になっているということです。一般民衆がその俳優のどこかを真似ようとする。この影響力について考えなければならない。俳優は民衆の一つの偶像である。俳優は直接一般民衆に何も教えるような役目は持っておりません。これは他の芸術家と同じですけれども、しかし少くとも俳優は自分の全部を一般民衆の前に示して、そうして而もそれが一般の民衆の憧れとなるのですから、一番大事な点は、民衆の趣味というものと関係を持つことであります。ある人気俳優の言語動作、化粧法などというものは、非常に速かに一般民衆の中に伝播されます。既に日本でも歌舞伎俳優というものは、わが国の或る一部の社会には、その趣味の影響を非常に与えております。現在では、外国のトーキー、殊にアメリカ映画の俳優が、日本の若いゼネレーションに非常に趣味的な影響を与えております。しかもその趣味が、けばけばしく悪くなればなるほど、影響力が強いということが非常に恐ろしいことです。その趣味がよく洗練されていれば、それは目立った影響力、直接な影響力はないかも知れないが、一般民衆に知らず識らず深い影響を与えるものです。これが先ず大事なことです。
今日まで日本ではあまり気づかれていませんが、実際には俳優が喋る言葉が一般に影響力を持ちます。つまり俳優は言葉のチャンピオンです。俳優の使う言葉が、その国のその時代の、最も正しい標準になる、美しい言葉でなければならない。現に欧米ではその通りになっております。これも一つの大きな文化的役割として、これからの俳優はおろそかにできない問題です。
もう一つは、いかに多くの俳優が揃っていても、それがただ名優であるというだけでは、その国の文化のバロメーターにならない。文化の水準が高いとはいえない。何故ならば、ジャバにはジャバの名優があり、アフリカの土人の中にかりに芝居らしいものがあるとすれば、その中に名優がいるかも知れない。だから名優が沢山いるということだけでは、その国の文化が高いという証拠にならない。その国の文化が高いということの一つのバロメーターになるのは、俳優の中に学識のあるものが沢山いるということです。現代人として最も高い教養をもった人達が、俳優の中に沢山いるということが、その国の文化が高いということのバロメーターです。
ですから、例えば外国の大学で、日本の俳優にひとつ来て貰って日本の芝居の話をして貰いたいといわれた場合、そこへ出かけていくと、大学の学生ばかりでなく、大学の教授、更にその国の沢山の文化人、学者、芸術家などが、その講堂に集って、恐らく日本の俳優の講演をきくでしょう。その場合に、その俳優の喋る話の内容が、いわゆる知的な水準に於て低かったならば、日本の文化は甚だ貧しいものと判断されても仕方がない。西洋の文明国ならどこの国へ行っても、その国の俳優が、大学者などと少しも違わない調子で、演劇の専門的な薀蓄を傾け、一般国民に公の場所で話をしていることがよくあります。それを今日の日本に於て直ちに求めることができなければ、ひとつみなさんの時代には、是非そういう風になっていただきたいと思います。
人及び芸術家としての理想のなかに、もう一つ職業人としての誇りと嗜みということを加えたいと思う。俳優もやはり一つの職業人です。その職業人としての誇りと嗜みというものがなければならない。この点がまた、今日まで俳優道徳というものに欠けていた点です。職業人といえば、その職業を遂行する上に於て、いろいろな人的関係というものが生ずる。いろいろな人を相手にしなければならない。その相手にする人というのは、先ず企業家です。演出家です。或は脚本家です。俳優としての同僚です。更に見物、或は批評家というものがあります。こういう人たちと絶えず接触をしなければならない。即ち職業人として、如何に誇りをもち、如何に嗜みをもって、そういう人達との関係を秩序あるものとして行かねばならぬかということは、俳優の道徳として非常に大事なことです。これもごく簡単にお話します。
先ず演劇は綜合芸術だということをいいます。綜合芸術だということは、いろいろな芸術の部門が集って、それらの協力によって出来上った芸術という意味ですが、しかし綜合芸術という言葉は、実はドイツのワグネルが芝居に対して初めて使った。音楽、美術、舞踊、文学そういういろいろな要素によって芝居が出来上っているという意味で、綜合芸術ということをいったわけです。これは実はワグネルが自分の専門とする歌劇について論じた一つの意見ですが、そのワグネルの歌劇論が近代演劇論の口火になったのです。その為に演劇は綜合芸術なりということを、今日もなおいう人がいます。その点では私は少し意見が違う。意見が違うが、しかし、それはそれとして、芝居は多くの人達の協同作業であるということは、これは間違いない。非常に沢山の人が力を合わせて作りあげる仕事であるということは間違いない。そういう意味で、今あげた人々とは、いろいろな関係で共同の責任を分ち合わなければならない。
先ず、企業家は概して資本家です。しかし企業家対俳優というものは、これは決して資本家対労務者ではない。また、封建的な意味に於ての主従関係でもない。それはやはり他の生産部門と違った、特殊な関係であることを考えなければなりません。俳優を今日の興行者は決して単なる労働者として扱っていないでしょう。また主従関係に於ける如く隷属視していないと思うけれども、どうかすると、この資本家対労働者、或は主従関係というようなものが、何か隙があれば流れ込んでくる惧れが多分にある。それは一方興行者側に於て
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