ない。それよりも、もっとわれわれに魅力があることは、例えば、その顔が非常に聡明であるとか、或はまた非常に意志の強そうな顔をしているとか、そういう風な精神的な特徴を示す言葉で以て云い表さなければならない顔です。これはどういうことかというと、顔にしろ、姿にしろ、肉体そのものの美しさは、精神の裏打ちというものがなければ、それは、まったく感覚的な美しさに過ぎない、少くともそういうものは、俳優の第一の武器ではありません。
 次は声です。
 声はいったい肉体か、という疑問が起るかも知れないが、声というものは、肉体によって発せられるもので、声はどういう風にして出るかということは、生理学でみなさん習っていると思う。だから、声も一つの肉体的素質の中に数えます。この声もまた容貌姿態と同じように、いい声とか、悪い声とかいうけれども、これは、例えば、音楽の方では、いい声と云えば、大体或る標準に基いて、優れた声ということを意味する。耳に快く響く声、つまり音楽に適した声です。しかし、芝居や、トーキー映画に於ては、俳優のいい声というものが、今日まで、それほどはっきりした標準をきめられていません。芝居なりトーキーなりに適した声と云っただけでは、どんな声か、まだよくわからない。
 普通いい声という、そういう声が勿論、芝居やトーキーで悪いわけはありませんが、俳優としてやはり、いわゆる美しい容貌を恵まれている人と同様に、確かに、これは若干の強味であると同時に弱味でもあるのです。なぜなら、声がいいというだけで、その自分の声に余り頼り過ぎて、その声をほんとうに調節し、使いこなす修業をついお留守にします。つまり、声を相手に聞かせることだけで満足して、その声を使って、芝居で大事な、何を相手に伝えるかというその伝えるもの、伝える方法を軽く見てしまう危険がある。
 この例も沢山あります。そこで声についてもう少し細かく話をしたいと思うのですが、この講義は実は倫理のお話ですから、それと関係のありそうなことだけを話すことにします。
 普通いい声、悪い声、或は高い声、低い声、そういうことをいうが、それ以上に、さっきの容貌姿態の時と同じように、もっと精神的な要素を声の質に結びつけることがあります。例えばやさしい声、或いは突慳貪な声、甘ったれた声、悲しい声、そういう風に声と人間の感情を結びつけること、それからまた、その声の質にもっと人間の値打のようなものを結びつけることがあります。これが一番はっきり分るのは、利口な声と、馬鹿な声です。云っていることがなんであっても、その人の声によって、その人が利口か馬鹿か、ほぼわかる。これは恐ろしいことであります。或はその人が非常に考え深いか、或は軽薄か、そういうことが、声で大体見当がつきます。一例を挙げればそうですけれども、この声というものは、やはり子供の時から大人になるまで、或は年寄りになるまで、決して同じでない。段々変って来ます。しかも、その変り方がいろいろな条件で変る。風邪をひいて咽喉を痛めたというような一時的なこと以外、いろいろな条件で変る。年をとると、だんだん声も年をとりますが、年のとり方にいろいろある。人間の声は生活によって鍛えられ、或は荒らされる。鍛えられるというのは声を絶えず使うような仕事をしている人でなくても、自然に生活で鍛えられた声というのがある。充実した、立派な生活でも鍛えられるし、苦労と闘い、血みどろの生活のなかでも鍛えられる。いわゆる人間がしっかりしてくるのと比例して、声もしっかりして来ます。底力があり、頼もしい声です。年をとっても、苦労を知らない、或は苦労にひしがれた声は、それぞれ、明暗の違いがあるだけで、いずれも生の声と云っていいのです。
 特別に声の訓練をしていない若い人の声は、全部が全部、生の声と云えます。俳優としては、舞台の上で台詞を云うのに、若ければ若いなりに、年配ならば年配なりに、鍛えられた声を持っているということは絶対に必要です。どんな俳優でも、段々舞台の上の修練が積むと、自然に声が鍛えられて来る。即ち舞台で声が通るということは、一面声の鍛えられた証拠です。しかし、それだけでは、まだ魅力ある声とは云えない。人間の味いがその声に加わらなければ、ほんとうの俳優の声とは云えません。どういう風にして人間の味いを加えるのかというと、いま云った充実した生活と、優れた教養による外はないと思います。生活によって鍛えられた声というのには、さっきも云ったように、いろいろありますが、教養によって味いをつけられた声というのは、殆ど一定の特徴があります。なんとなく深みがあり、力強いとは云えなくても、十分に圧縮された声です。声は勿論、声楽とか、和楽のいろいろな歌、長唄、義太夫、謡曲、そういうもので最も自然に直接鍛えられます。演説や講義のようなものでも鍛えられます。俳優として、そういう補助的な直接の声の訓練も大事ですが、なんと云っても、声の質がより以上に問題であります。いかによく通る声でも、例えば、下品な、狂気じみた声では困るし、同じ美声の名に値しても、浪花節語りのような不自然な特殊な感情に訴える声では、それはあまり有難くないのです。ごく広い意味での生活が、一人の俳優を通して、その表情姿態、その言葉、その声の中に沁み出るということは、即ち俳優芸術の最も微妙な点で、これはどうしても現在の俳優について徹底的に論議しなければならない問題であります。
 ここでひとつ例をとれば、同じ年輩の二人の人を比べ、その人の声を聴いてみると、大体教養の程度の違いがわかる。教養という言葉がまたなかなか面倒な内容をもっていますけれども、これはただ本を読むとか、学問をするとか、そういうことだけではない。勿論本を読むということもその一つですけれども、ともかく自分を文化人として完成させるために、必要なものを身につける、その身につけたものをいうのです。古い言葉でいうと、それぞれの階級の嗜みです。だから、高い程度の学校を出ているとかいないとか、これは絶対なものでは無論ない。本を沢山読んでいるとかいないとか、これも絶対的でない。しかし、本を読むということ、或は学校に行くということは教養の一部です。
 大事なことは、それからちゃんと栄養になるものを吸収し、それによって生活の規準をより高いところに築いているかどうかということです。しかし、例えば、女の人でいうと、尋常小学校でやめてしまった人と女学校以上の学校に行った人とではそれは勿論家庭の空気にもよりますけれども――およそ声の出し方、声の性質が違うものです。必ずしも、どっちが立派だとは云えません。其の他の条件が加わりますから。しかし、違うことは、それだけで違う。男の場合でもそうです。例えば、肉体労働者と精神労働者は声が非常に違う。これは教養によっても声が鍛えられるという証拠です。そういうように、肉体と精神というものは、俳優の場合には少くとも密接な関係があるのであります。肉体的な素質ということで容貌姿態と声と二つを挙げましたが、この何れも、ただそれだけの価値では絶対的なものでありません。必ず精神的な要素が、それに加って、俳優の肉体的な素質は高められるものであるということを先ず知るべきであります。これで俳優の素質ということをざっと話しました。

     4 人及び芸術家としての俳優の理想

 これは俳優に限らない、社会のいろいろな部門で働いている人間が人間として、また同時にその働いている部門の職業人として、それぞれ一つの理想を持っている。この二つの理想を一致させるということが、この人間社会の生活に於て非常に重要なことであります。例えば、文学者ならば、文学者としての理想と人間としての理想とを一致させる。同様にまた俳優も、人及び芸術家としての理想を一致させるということが大事です。しかし、それはまた非常に困難なことでもあります。人としての理想はいうまでもなく、一般の倫理学で教えているように人格の完成であるが、芸術家としての理想は、独自な美の創造であります。人格の完成というのは、人間として生きて行くうえに、最も普遍妥当な徳を身に備え、自分の属している社会、国家のために真に役立つということです。
 芸術家としての理想は、自己の才能によって人間の感情に新しい表現を与え、現実の生活をより「美しく」することであります。道徳の善も結局は「美」に通ずるものでありますが、芸術は寧ろ「真なるもの」を追求することによって、美に到達する道です。人格の完成という場合に於ける道徳的善と、美の創造を目指す真の探求とが、芸術家としての生活に於てどう調和するかという問題は、なかなか厄介な問題で、昔からいろいろ論議されていますが、原則として、そこには決して矛盾はないと思います。それが矛盾するように見えたり、或る場合には、自分でその矛盾に苦しんだりするのは、いずれも修業の道程に於ける未習熟の結果であります。ただ、芸術家は、そういう現象をいい加減に胡麻化さないだけであります。俳優が一人の社会人として生活する、その態度のなかにもしそういう問題が起ったとすれば、それは先ず次のような三つの場合に限るだろうと思われます。
 第一に芸術家は真面目であるということと厳粛であるということとの区別をはっきり知らなければならない。真面目であるということは、例えば、人間としての過ちを犯さない為に、戦々兢々として日常の生活の細かい部分まで気を配って、苟くも人から誤解を受けないように言動を慎むとか、あらゆる慾望をできるだけ制して常に無難な道を歩こうと努力する、そのような態度が普通真面目といわれているので、人としてそういう態度を守ることは、これは道徳の上から別に非難の余地はない。むろん消極的です。しかし、努めてできることはこれくらいのことです。しかし、人間はある時は芸術家であり、ある時は政治家であり、事業家であり、兵隊である。いわゆる真面目さということだけが、その人の身上ではない。それよりも、もっと大事なことが人間にはあるのであって、俳優の場合に於てもそうである。日常生活の小さな部分にまで気を配って、ひたすら真面目であろうと努めるような、そういう努力は、これは芸術家として自分を伸すことではない。そういう生活によって、なお且つ、芸術家として自分を伸し得る人もあるかも知れない。これはないとは保証できないが、それはすべての人にあてはめてその人の為になるということは保証できません。これは道徳の話としては非常にデリケートな話で、よく私のいう意味を酌んでいただかなければならないけれども、少くとももっと積極的な、大胆な生活というものがある。当って砕けるという生活の中に、本当の芸術家としての自分を伸ばす途がある。しかもそういう生活が必ずしも道徳と矛盾する途ではないのです。ある時は道徳の埓外へ危く踏み出そうとすることがあるかもしれない。しかし、その場合に最も厳粛な態度というものが要求される。この厳粛な態度というのはどういうことかというと、その道徳の埓から万一一歩ふみ出した場合に、その責任を悉く自分が負う。その為に自分はいわゆる神の怒にふれることを覚悟しなければならない。それがただ口だけで、どんな罪でも引受けるといって大きな顔をするのではない。万一道徳の埓外に踏み出した場合、非常に激しい悔恨、非常に大きな苦痛をその人間は実際に味わなければならないのです。またそれが味えるような人間でなければ本当の芸術家ではない。そういう覚悟と良心をもって事に当り、生活を律するのには、大きな勇気がいります。この勇気が、高い意味に於ける道徳の追求である。そして、そういう生活態度が、即ち厳粛ということなのです。この辺は先程もいいましたようにデリケートな芸術家の生活の道でありますから、みなさんは今後の修業に於て、ただ単に芸の修業を心掛けるばかりでなく、芸術家としての心構えのうえで、十分想いをひそめ、みずからさとるところがなければなりません。
 もう一つは、一般の人は大体に於て控え目である。或はまた、地味にものごとをするというのが、
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング