密接な関係があります。
そこで第三に必要なのは観察力ですが、この順序は重要ですから、はっきり憶えておいていただきたい。一番大切なのが感性、その次が想像力、それから今度の観察力です。極端な場合ですけれども、想像力も観察力も非常に貧弱である。或は殆どそういうものがないというような俳優で、感性一点張りで役者をしている相当な役者がいます。ここで名前をいうと悪いからいいませんが、日本の旧劇の役者では相当な名優といってもいい役者でありながら、想像力と観察力は殆んどゼロ、一般の社会の人の中以下であって、ただ感性というものだけがずば抜けて高い。その為にああいう芸をちゃんと身につけて、而もそれを立派に護り育ててくる。そういう人がいる。殊に歌舞伎のような芝居では、それである程度いい。だが、ここで話しているのは、歌舞伎の俳優を標準にしているのではありません。そこをはっきりさせておいていただき度い。芝居の種類によって、俳優に必要な精神的能力、素質というものがまた多少違いますが、しかし、一般俳優というものについては、そういう順序が大切なのです。
想像力は実際目の前にないものを想像する。しかし、観察力というものは実際目の前にあるものを見て、そのものの状態と特色をはっきり識別する力です。
例えば、そこに二人の青年がいる。その二人の青年は違うということは別に観察力がなくてもわかる。しかしどう違うか。それを仮りにある人にいって貰いますと、そのいい方で以て、その人の観察力がテストできる。勿論、一口にはいえない。一口にいうことが必要なのではない。ここも違う、あそこも違う。それをあげてゆく間にその人の観察力というものがわかる。而もその違うという点はいろいろな点が違うのですが、しかし大事な違いと、それほど大事でない違いがある。大事な違いを見落さないことです。これを観察力に富んでいる、或は観察が鋭いという。洋服の色が違う、一方は黒、一方は鼠、それは誰でも気がつく。それは気がついてもえらくない。観察力があるとはいえない。片方は眼鏡をかけて、片方は眼鏡をかけていない。普通の人はすぐにそういういい方をする。髯が生えている、片方は生えてない。顔が赤い、片方は白い。そんな表面的な違いだけなら誰でもわかる。観察力がなくてもいい。しかし、この人は観察力をもっている、この人の観察力が鋭いといえるのは、そういう一般的な違いを残らず頭に入れ、しかも、もっと人間として根本的に違う点を、ちゃんと見落さないことです。観察力が鋭いということはどういうことを意味し、どういう利益があるだろう。もうひとつ例をあげると、ここに一人の青年がいる。この青年は初めて見るのだが、一体何をしているんだろう? この問いに、間違っても非常に面白い答が出せる人は観察力があるといえる。例えば諸君のうちには、既に舞台の経験を積んだ人がいる。そういう一人を初めてみて、これは俳優だといいあてるものがあったら、これは観察の天才です。殊に新劇の俳優というものなどを、そう誰でも、俳優だといいあてることはできません。しかし、そういう風にぴたっと当てないでも面白い返事というものはある。非常に俳優という観念にあてはまらない、新しい一人の俳優に対して、この人は何をしている人だろうといった場合、それの面白い返事は何かというと、非常にそれと近いか、或はかなり遠いけれども、その職業と俳優とは一点共通なものを持っている、他の面では非常に違うが、ある一点だけ共通しているものを持っている、そういう職業をパッという。それが面白い返事です。そういう返事ができる人は観察力があるというわけです。もう一つ電車の中で長い時間ずうっと自分の前に大勢の人が並んでいる。そういう場合、相手の人をそれとなく観察することが出来る。年を取った人、若い人、女の人、男の人、或いは立派な身成りをした人、みすぼらしい身成りをした人、いろいろなのがある。ところで、その人達に点数をつけることができます。例えば、それを全部俳優と仮想して、これに点数をつけてみせることができる。しかし、種々雑多の、社会のいろいろな人がいる場合、一体何を標準にして点数をつけるかが問題です。いろんな標準でつけられます。大学生として、中年の紳士として、結婚適齢期のお嬢さんとして、なんでもいい。私はこれを、一般の人に通じる人間的魅力という点に標準をおいてやってみるのが面白いと思っています。それは特に諸君にもやっていただきたいと思う。つまり、こういう標準で点数をつけるということが一番俳優の勉強になる。電車の中に並んでいる人物の中で、どの人が一番面白い人間か、或は一番人間として魅力があるか、その標準はいつの場合でも通用します。誰がやってもいい。そうして、それを相手にいわなければ少しも失礼ではない。この点数のつけ方というものは、これは又一つのテストになる。点数をつけるその人のテストになります。ですから、私が諸君と一緒にどっかへ行く。偶々、乗物の中に並んでいる人達をみて、ABCという名前をつける。それからみなさんに点数をつけて貰う。どれが一番人間として魅力があるか、そして、その答を私が見る。そうすると、あなた方の観察力がわかるばかりでなく、これは想像力のテストにもなる。感性のテストにもなる。つまり、俳優の素質の大部分がテストされます。結局、あなた方はどういう人間を以て面白いとしているかということなのです。人間の魅力はどういう所にあるかを、諸君がはっきり知っているかどうか? それを我々が知るのには、最も便利な方法です。
第一に正しく観察しているか、鋭く観察しているか、更に細い観察をしているか。先ずそれができるということが、俳優にとって非常に大事なことです。人間の魅力、人間としての面白さがどこにあるか、どういうところが一体面白いのかを判断し、そして、それを観察して、自分の頭の中に入れておく、これが俳優にとっては非常に必要な修業です。そういうことができるのは観察力のお蔭です。これはその俳優が、現代の最も複雑で而も深い人間性というものを、舞台の上に表現する場合に最も役立つのです。つまり現代の演劇を作り出す上に、非常に必要な素質であります。それがなければ現代の演劇というものは生れないのです。
第四に記憶力。
記憶力は四番目です。これは、あるにこしたことはないという程度のものです。記憶力がゼロであるどころか、マイナスである俳優が沢山います。而もあれは一向に台詞を覚えないといわれながら、なかなか幅を利かしている人がいます。しかし、記憶力がマイナスである為に、その役者は得をしない。ゴシップの種になるというだけで、決して得をしていません。演技を完成する上で、きっと大きな損をしています。この人が記憶力があったら、もっとほかの方へ力を使って、もっと伸びるだろうということになります。
だから、記憶力が強いということは、やはり台詞を早く覚えるというだけでなく、その他の方へ安心して力が伸ばされる。特に現代の演劇は大勢の者が協力して作り上げていく。現代の演劇で記憶力がなかったら――記憶力というのは主に台詞を覚えることですが、台詞を早く覚えないということは、他の人に非常に迷惑です。普通の記憶力、或は普通以上の記憶力をもっている人に非常に迷惑です。共同作業としての演劇を妨げるものです。これも決して先天的と限るわけにいきません。記憶力は最も確実に、訓練することによってえられるものです。しかし、また一通りの訓練ではどうにもならない程に記憶力の鈍い人もあります。
B 肉体的素質
肉体的素質を大きく分けて、容貌姿態と声の二つとします。普通肉体的条件と云いますと、顔が綺麗であるとか、或は姿が好いとか、肉体の均斉がよくとれているとか、いろいろとそういう風に云いますけれども、そのほかに声を含めます。俳優としての肉体的素質は、私の考えでは、普通の意味で恵まれているにこしたことはない、ということが一口にいえる。肉体的素質が恵まれているということは、どういうことかというと、顔が綺麗であるとか、姿がいいとか、声が美しいとか、そういう簡単な標準できめてしまうこともありますけれども、それならどういう顔が俳優として綺麗だと云えるか、どういう声が美しいか、そういうことになると、これは大変にむずかしい問題になる。
普通、男の人でも女の人でも、顔が綺麗だと男の人なら美男、女の人ならば美人というが、それと、俳優としての肉体的条件から云って、その顔が美しい、或は姿に魅力があるというのとは少し意味合が違う。これを十分に知っていなければならない。大体人間の顔が綺麗だとか、姿が好いとかいうのは、勿論一つの常識的な標準に従って、それを決めるのだけれども、そこには又万人の好みもあり、国や時代によっての標準の差異などがあって、今日すべてに共通な美の尺度というものは、きめるわけにはいきません。まして、どの程度に綺麗だということはなかなか云えない。それはどういうことかというと、美しいとか綺麗だとかいうことは、単に形の上からばかり論じるのでなく、そこには、常に肉体の表情を決定する精神的な要素がいろいろの度合で含まれるからです。女の人の顔かたちを批評する場合でも、お人形のように綺麗だという場合もありましょう。或はまた非常に愛嬌のある美しさだという風に云うこともありましょう。或はいわゆる美人とは云えないけれども、なんとなく、眼の表情に人を惹きつける魅力がある。こんなところまで来ると、いわゆる美人ということと、人を惹きつける魅力があるということとは、殆ど違った標準で語られているような印象を与える訳です。
そこで、顔かたちが、整って美しいということは、俳優としてそれだけで或る特権を与えられているようであるけれども、しかしまだ、唯それだけでは、なんの役にも立たない。何故ならば、顔かたちが整って美しいということよりも、顔かたちはいわゆる普通の標準で整っているとは云えない、寧ろいろいろな欠点があるけれども、しかもなお、人を惹きつけ或は人の眼を引く一つの魅力がある。そういう場合の方が、はるかに俳優としては成功する場合が多いからです。俳優は時としてその顔かたちの所謂整った美しさによって、それだけで観衆の注意を引くし、又所謂多くの崇拝者を持つこともできるのであるが、しかし、それだけでは芸術家として伸びるものではない。顔が美し過ぎるために芸が上達しない例は今日まで俳優の歴史を通じて沢山あります。
天性の麗質も、それを更にいろいろな方法で磨かなければ、ほんとうの意味で人間としての魅力にはならないので、もしそれだけで満足するようなことがあれば、天性の麗質は宝の持ち腐れとなるばかりでなく、そういう俳優の末路は、むしろ一段と不幸なのです。そこで普通いう意味の美男、美女ではないが、しかし、どこかに魅力があるというような俳優は、一面、精神的にある特徴を備えているためもありますが、一方では、真面目な修業によって、自分の芸を磨いて行こうとするところから、益々美男、美女でないことが、ひけ目にならなくなります。それを思うと、肉体に自然に与えられた美質というものよりも、寧ろその肉体をいろいろな方法によって磨き鍛えることによって、一層魅力づけるということが大切だということになります。
その肉体を磨き鍛える方法は、どういう方法かというと、無論お化粧ということもあるし、肉体的訓練ということもある。もう一つもっと大事なことは、精神的な訓練によって、その結果を肉体の上に現わす、これが最も大事なことです。この肉体と精神との関係というものは、今日まで、一般に俳優の肉体というものを考える場合、みんなが考えていたことではない。しかし、これからの俳優は、特にその点を大いに研究しなければなりません。いい換えれば、肉体には一つの表情というものがある。その肉体の表情というものは、主として精神の現われなのである。例えば、一人の俳優の顔を例にとって見ると、その顔が美しいとか綺麗だとかいうことは、その顔の値打を批評する言葉の全部では
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