いう表現の仕方をやっている。それでいいのです。しかし俳優だけは、少くとも大部分の人間と違って、その人間の立派さというものを立派に表現する能力、技術、心掛けを持つことが絶対必要であります。そこで、俳優は、ある点だけでは少くとも普通の人以上でなければならないということがわかります。さてそれならば、俳優としてどういう点だけは人並以上でなければならないか、それを俳優の素質という問題でお話致します。
3 俳優の素質
A 精神的素質
よく俳優になりたいという人がいて、私は俳優になる素質がありましょうかと云います。諸君も俳優になられる前に、或は俳優を希望される前に、自分は俳優として適した素質を持っているかどうかということが、一番大きい疑問だったと思う。確に、俳優になる為には、俳優に必要な素質というものがあります。これは絶対的なものです。素質がなければ、如何に努力しても勉強しても、それは或る所から上へは行かない。その或る所という標準を非常に低くとれば、これは誰でも俳優になれる。しかし、少しいい芝居、或はいい映画というものを考えて、そういう仕事の水準を目安におけば、俳優の素質というものは相当高い所に置かれなければなりません。
さて、今日まで、俳優の素質というものについては、これを総括的に研究した人もある。それからまた優れた一人の俳優について、この人はどうしてこんなに立派な俳優になったか、一体どういう所が優れているのだろうかということを研究して、ある答を得ることもあります。そこから、一般俳優の素質を考える為に、私は次のように問題を分けていたらよかろうと思う。
先ず精神的な方面であります。これは精神の方が肉体よりも大事だという意味ではありませんが、先ず精神的な方面から云えば、俳優に最も必要な素質は感性、あるいは感受性です。これは英語でセンシビリティと云っております。これは、物事の性質を細かく鋭く刺戟として感じとる力であります。親切な人、勤勉な人、勇気のある人、几帳面な人、そういう性質を持った人が沢山いる。しかし、それらの人が必ずしもこの感性に於てすぐれているということはできません。感じが鈍いというような人は別として、人並以上感受性の豊かな、鋭敏な人は、それだけでもう恵まれた素質をもっているということができます。
感性というものはどういう働きをするか。
二通りの働きをします。極くわかり易く云いますと、ものごとから受ける印象の度合が普通の人よりも、はっきりしている。ものごとの強弱や変化を鋭敏に感じとる、大概の人がぼんやり知らずに過すようなことを、ピンと感じる、あの働きを指すのです。感性は鋭敏で、且つ豊かでなければなりません。
――豊かであるということと、鋭敏であるということは少し違います。豊かであれば、たいがい鋭敏であるが、鋭敏ではあるが必ずしも豊かでないという場合もある。非常に鋭敏だけれども、その感受性は限られた範囲で、その範囲に於てはその人の感受性は鋭敏だ。しかし非常に貧しい、豊かでない。だからその限られた範囲外ではその人の感受性は存外鈍い、という場合がある。感受性は豊かで同時に鋭敏でなければならない。知力、或は知性、というものに対して、感受性は全くそれと違った働きをする、ものごとを感じとる力です。しかし感受性と云えば、所謂受身になる。いわゆる感性と感受性という言葉はどっちもセンシビリティの訳語ですけれども、感性を感受性よりも少し意味を広く私は解釈したい。何故ならば、一方の感性ということはものを感得する、味得するというような場合に働くだけでなく、ものごとを表現する場合にも働く。自分で或る事柄を現わそう――云い現わそう、或は身振でそれを人に見せよう、という場合にも、感性というものは働くものです。ですから受身になって或る事柄を感じて受けとるという場合でなく、或ることを現わすという場合にも、感性というものが非常に大事なのです。それはどういう風に働くかというと、自分が示そうとしていること、現わそうとしていることが、目的どおり適切で正確であるかどうかということ、そういう度合を微妙に感じる力、それを瞬間に規整する力です。
例えば、ここで泣き真似をする。如何にも本当に泣いているようにみせようとする。本当は泣いていないのだが、冗談に泣いているというのがある。よく誰でもふざけてやることですが、そうでなく本当に泣いてる真似をする。これは俳優の演技としてはやさしい、やさしいというより寧ろ一番単純なことです。物真似ということは、俳優の演技の一番原始的な部分です。その泣き真似をここに持って来る。その時には、自分流の泣き方以外に、いろいろな人の今までの泣き顔を頭に浮べる。いろいろな人のいろいろな泣き方というものをこれまでに見ている。そういうものが自分の記憶の中に積み重ねられている。あの時のあの人の泣き方はこういう感じがしていた。如何にも親しい友達が死んだ時の悲しさをあの泣き方は、はっきり示している。非常に感動的な泣き方だ。あの時のあの人は兄弟喧嘩をして如何にもくやしそうな泣き方だ。同じ泣くのでもいろいろな泣き方のニュアンスがある。程度や色合の違いがあります。そういうものを自分の記憶のなかに誰でも持っている。微妙にそれらの違いを感じ、受けとるのは、感性によって受けとっている。ところが、それが記憶のなかに積み重ねられていて、自分が泣き真似をする時、知らず知らず自分の記憶のなかからひとつの型を選びだすのです。それを選び出す時に、自分の今の目的に一番かなったやつをうまく、即座に突きとめ、それを最も自然に、正確にやってのけるのは、この感性の力です。
泣くということの一例を挙げたに過ぎませんが、自分が或ることを示そう、現わそうとする時に、その現わそうとすることが、自分の思っている通りに現われているかどうかを瞬間に判断し、これを即座に調節する能力、これは感性です。俳優にはこの感性というものが一番大事である。一番大事であるということは、他の普通の人よりも、鋭くそうして豊かでなければならないということであります。これが第一です。
第二は想像力。
想像力というのは、言葉どおり、ものを想像する力です――空想とはちょっと違いますが、これは英語ではイマジネーションといいます。普通ものを想像するというと、誰かと会っていろいろな話をしている。あの人はあんなことをいっているけれども本当はこうなんだろう。あの人は私にあんなお世辞をいうけれども、おなかの中では軽蔑しているのだ。そんな風に、相手の気持をいろいろ推測してみる。或は旅行をしようと思う。例えば、京都なら京都へ行くとすると、今頃の京都はさぞ青葉で美しいだろう。行ったことがある人なら、京都では例えば嵐山の景色を想像する。仮りに言葉の頃でなく花時に行った人なら、花の頃の嵐山を頭に浮べて、花が川の水に映って非常に明るい光に満ちていた。その嵐山が今は青葉が水に青く影を映しているだろう。そういう一つの風景の想像ということもある。また今日誰かに会おうとする。どこかで待ち合わしてそこで会う。一体何んの用だろう。何時どこそこに来てくれというので、これから行くのだが、あの人はなんの用事で自分を呼んだのだろう。そうするとその人の最近の消息を考え出して見て、もうじき結婚すると云っていたが、ことによると、相手でも見つかって相談するのじゃないか、その相手はどういう人だろう。あの人はこういう人が好きだと云っていたから、多分こういう人だろう。これが普通云われる想像力で、誰でも所謂想像力が全くないということはありませんけれども、比較的そういう想像をする癖があって、いろいろ想像を逞しくする人がある。想像を逞しくする人、必ずしも想像力の豊かな人ではない。想像を逞しくすることは決して想像力ではない。それが立派にその人の精神的な能力と云えるような想像力は、決してそういう単なる想像ではありません。物事を想像するその仕方の中に一つの確かな拠り所があって、しかもその想像はある現実よりも一層真実であるというような生命力をもっている場合を云うのです。ただああじゃないだろうか、こうじゃないだろうかと、勝手な想像を廻らすような想像は、これはその人の性質とは云えるかも知れませんが、能力とはいえません。同じように頭を働かせながら、その想像が非常にうがっている。少くとも、その想像された世界は、事実そのものを離れて、真実の上に立つ夢の面白ささえあるというような、そういう頭の働きが、ある種の人間には備わっています。この能力が即ち想像力で、俳優の場合にはそれが非常に大事です。
何故そういう想像力が大事か。俳優は一つの脚本、戯曲のテキストの中にある所の一つの人物を先ず自分の頭の中に描きだします。脚本を読む、その脚本の中にはいろいろな人物がいます。その人物というものは、脚本のなかでは、いつでも或る程度にしか描かれていません。その人物の全部が実に巧に正確に描かれてあると云っても、しかしなお且つ決してそれは全貌そのものではない。全貌を想像し得るように描かれているだけのことです。想像し得るということは、読者の想像力を計算にいれてあるということです。ところが、その戯曲を読む場合に、想像力がない読者――俳優なら俳優の想像力が豊かでない場合は、そういう人物の一人一人を頭に描く時に、その姿というものは、その作品の作者が望み、求めているその全貌ではない。もっと貧弱な姿であるにきまっています。ですから、そういう俳優が自分の頭の中に描いた人物は、それ以上には舞台で演じ得ないわけです。逆に或る脚本の中の人物を、俳優は、作者の意図に反することなく、いくらでも生々と、その役らしく演じる自由をもっているのですから、想像の範囲なるものは、決して限られていません。それが優れた役者であるならば、その作品全体を読んで見て、その人物を作者が求めている以上に、ぐっと面白く想像してみることもできるわけで、これは、何人も、そういう自由を妨げることはできません。俳優が自分の演じる役を面白く生き生きと想像できればできるだけ、その芝居は面白くなる。これが、いわゆる演技以前の演技といわれるものです。
あとは俳優がそれぞれの人物を精いっぱいに表現することが残るだけです。しかもこれを表現するために、例の感受性とともに、この想像力が再び働かなければなりません。
想像力はどこから湧いて来るか。丁度さっき感性の所でいいましたように、今までの経験で記憶というものの堆積が誰にでもありますが、そういうものを自由に組み合せることのできる能力というものが想像力の土台になる。
頭の中にいろいろな経験というものがつみ重ねられて、それが記憶となって残っています。その記憶がただ固定して、動かずにいるだけでは、ただ記憶の役目しか果しません。それに黴が生えているような状態になって残っているというだけではいけない。それが必要に応じて自由自在に動かし得るような状態になっていなければいけない。これが人間の想像力というものの土台になる。ですからかりに先天的にそういう性質をもっている人間がいたとしても、やはり経験というものがそれを生かすのです。その経験というのは、決して自分があることをするということばかりが経験ではない。小説家があることを想像で描くということをいいますが、その想像力はやはり経験というものが土台になって、そこでその働きが生れるのです。しかし、小説家が自分の小説に書いたような事柄を悉くやっているのかというと決してそうではない。これも経験という言葉の意味を非常に狭く解釈することになる。本をよむこと、人から話をきくこと、或は人の話と自分で見たこととを結びつけて、そこでまた一つの新しい経験を得るということもある。
想像力と観察というものとは普通違ったものとされていますが、観察というものが非常に綿密に確かにされていなければ、想像力というものがやはり決して豊かなものになりえないのです。観察力と想像力とは違ったものですが、その間には非常に
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