しかし、それがやはり一つの誤解となっている。もう一つは肉体というものが精神と比べていやしい或はけがれたものであるという、一つの非常に素朴な宗教的なとも云える考え――これも亦俳優芸術というものをはっきり権威づけ価値づけるために、十分改めさせなければならぬ観念であります。将来、俳優芸術を守り育て、それを社会一般に正当に認識させる為には、この三つの点を十分是正する必要があると思う。
第一に、俳優の仕事は、決して偽りの仕事、或は人をだます仕事ではないということです。そういう考えは先ずどういう風に是正したらいいか。これは相当世間に深く入り込んでいて、なかなか一朝一夕で改められるものではないと思うが、しかし、結局は舞台の上で俳優が演じるその演技というものの真実性――演技があくまで真実を伝えるものであるという、その仕事の意味をはっきり徹底させることが必要です。俳優の演技は他の芸術と全く同じように真実が最も大事なものである。真実を伝えるために俳優の演技というものがあるのです。これは他の芸術と全く同じである。
その真実を伝えるということが俳優の演技のなかに本当にみられることによって、先ずそれは是正しなければならない。つまり俳優が自分というものを離れた別の人間になっているという嘘――それを普通に嘘といえば――そういう嘘を全くのりこえたところに真の生命がある。これはやはり他の芸術の場合には、それが素直に一般の人の感情に伝えられるのですが、俳優の場合はそこに俳優自身の肉体というものが眼の前にあるだけに、そういう俳優の芸術にも共通である真実性が往々人にわからないですまされる。
もう一つは俳優がその真実性というものを本当に掴んでいない。そういうものを本当に舞台の上で見物に示すという芸術家的な信念、情熱がない場合には、これは全くその世間の偏見を正すことはできない。俳優はなるほど一般公衆の前に自分の肉体を示すが、しかし、それと同時に、俳優は俳優の全精神を、魂を、舞台の上に立派に表現している。その点をしっかり俳優自身が自覚していなければならない。そうして仮令他の芸術家が作品を通してその芸術家の精神のみを伝えているにせよ、肉体というものは精神にくらべて、特に卑しい、或は汚れているものだということは絶対にない。もっとも、この芸術論の立場に対しては、或はそれに反対した立場というものも考えられましょう。しかし、それと反対の立場というものは、これは結局演劇芸術を認めない立場になる。演劇芸術そのものを否定する立場は、これはここで論外としなければならない。しかし、演劇芸術に携わるもの、または演劇芸術を芸術の立派な部門と考えるものは、肉体と精神の関係に於て、肉体は精神の下位にあるという観念を全く一掃しなければならない。これが非常に重要なことだと思う。ただ、ここにかりに一人の俳優が、自分の肉体の技術的訓練、肉体の感覚的魅力というものに絶対的な価値をおいて、精神の美しさ、精神の気高さ、精神の力強さというものを全く顧みないとすれば、これは世間の俳優に対する一種の偏見を益々助長させることになる。自分自身でそれを証明することになる。ところが、そういう世間の偏見というものは、実は俳優のなかに俳優自身がそういう偏見を持っていた所にも大きな原因があるということも忘れてはならない。それと同時に演劇芸術の魅力は、一方、精神に訴える真実と美の世界に重点がおかれていなければならないことを、俳優自身が十分に認識してこそ、はじめて、俳優の演技に、真の意味に於ける気高さ、深さ、重みというものがついて来るのです。
俳優の仕事に対する偏見の原因もこれで一通りわかり、またその原因に対してどういう態度を取らなければならないかということもこれで一通りわかったと思いますが、その次には人としての俳優をどうみるべきか、という問題、これはここで私が話をする俳優倫理というものの愈々倫理らしい所になって来るのです。
先ず俳優の仕事の特殊性から来る問題があります。俳優芸術というものの性質上、先程申しましたように、俳優が俳優として一般公衆に見える時には、自分というものの姿ではなくして、自分以外の或るものの姿で一般に見えるということがまず普通です。そうすると、今度は逆に、俳優が自分自身の姿で一般の人に見える時はどうであるか。これが先ず人としての俳優を考える場合の一番大事な所です。俳優が素顔でいる。この「素顔で」ということをよく云う。舞台の扮装をしない、舞台の役を通じないで、何某という俳優が普段の儘の姿で人に接し、世間に向う時、その俳優は一体どういう態度で人に接しているか、或は俳優は平生自分の生活の中ではどういう気持で生活をしているだろうかということを考えてみます。
いくら俳優でも、舞台以外では、普通の人間とちっとも変ったところはないでありましょうか? 変ったところがあってはいけない、如何なる場合でも俳優であるという意識を失わない、それがやはり立派な俳優である、という一つの説。俳優でも、人に接する時には所謂俳優であるという意識を捨てて、全く一個の人間として人に接すべきであるという説。
この二つの説がありますが、実際その何れかをみな実行しているわけです。私も日本の有名な俳優を幾人か知っております、西洋の有名な俳優に幾人か接したこともあります。なかには比較的親しく、その人の日常生活も知り、また平生ひとを引見する時の態度を観察したことのある人もあります。大きく分けて、やはり今云ったように、所謂俳優としての意識を絶えずもって人に接している人と、俳優であるという意識を全くもたないで、少くとも脱ぎ捨てているかの如き態度で人に接している人と、大体二通りに分けることができる。
それは一体どっちがいいのか。この議論は寧ろ諸君に私の方から聴きたいくらいですが、これは一概にどっちがいいとは云えないと思います。何故かというと、その二種類の俳優に会った印象から云えば、そのいずれにもいい所がある。絶えず俳優らしく、俳優としての意識をもち、平生も恰も芝居をして居るかの如き心懸けを以て人に接しているのを見れば、確にその人が本当に優れた俳優なら、ある意味では立派であります。恰もいい役者がいい芝居をしているのを楽しむように、その俳優に会っている間は、相手の人間は楽しい。現にそういう印象を味ったことが度々私はある。ところが一歩退いて考えて見ますと、そういう態度で人に接している俳優が一旦俳優であることの必要が少しもないような場合、果してそれを押し通して不都合はないか。普段その人を俳優として見る時ならば、非常に魅力のあるその人の態度なり、応待の仕振りなり、或は生活の仕方なりが逆に不愉快なものになった経験を私は持っている。さっき云ったジャン・ジャック・ルソーの如き思想が生れるのは、実は俳優というものは多少いつでも「お芝居」をしているものだという、そういう基礎観念に基いているのです。俳優というものは、人に会っても、どこかにその舞台の上である役を演じているような、そういう意識があるものだ、こういう基礎観念があるからこそ、俳優というものはどこか信用ができぬ、油断がならぬという考え方が生れるわけです。
しかし果してそれが俳優全体であるかというと、決してそうでないということも、私は一方で証明できます。一方にどういう人がいるかというと、舞台の上では立派な役者が、平生は殆ど役者であるということがわからないような生活、態度で、役者であるという意識が殆どないような風に見える。実際は、その人の役者であるという意識は、元来そういう現れ方をするのかも知れませんが、しかし少くとも俳優であるということを鼻の先きにぶらさげていない。それならば、そういう人は舞台の上だけで魅力があり、平生の自分に還った場合には、平凡な、誰の注意もひかない、或は場合によっては非常に見窄しい一人の人間になってしまうのかというと、これは決してそうじゃない。優れた俳優は、平生俳優という意識から全く離れて、普通の人間として生活し、人に接している時でも、その人間のおのずから持っている一つの魅力によって、恰も舞台の上でその役者が或る役に扮している時と全く同じような魅力を人に感じさせるものです。これが役者の特色であります。つまり俳優が自分自身の役を立派に演じていると云えるわけですが、そういうことは、何かまだそこに嘘がありはしないかという疑問が起りそうです。しかし、その言葉をどう細かく分析して見ても、それは嘘にはなりません。自分の役というものは唯一つしかない。その役を立派に演ずるということも唯一つしか演じ方はない。普通の人間――われわれ俳優でないものは、自分以外のものにはなれないと同時に、自分というものをそれほど研究していませんから、自分が人にどう見えるかということはそんなに気にしません。勿論、普段工夫を積んでもいない。気取りというものはないことはないけれども、自分の存在が相手に快感を与えるということを必ずしも義務とも誇りともしていない。女の人はこの意味から云うと、いくらかは誰でも俳優であります。それでも普通の人は、自分の人間的魅力というものに対して、そう自信はない。美しいと誰からでも云われる人がややそういう自信をもっていて、それが時によると、人を反撥させることにもなるのでありますが、俳優はいろいろの意味で、人間の魅力とはなにかということをちゃんと心得ているのであります。そして自分はそういうものによって人から愛されていることを自覚し、そこに生活の一切を委ねているのです。この自分の役を立派に演ずるということが、俳優の他の普通の人間と違った一つの特徴です。それでこそ立派な俳優と云えるのだと私は思います。そういう態度で生きていることは、今度は逆に自分のもっているあらゆる肉体的精神的魅力を駆使して、舞台の上で与えられた役を、十分に演じ活かすことの訓練になるのです。
そうであって、初めて、自分以外のある人物の魅力を頭のなかで立派に作り上げて、観衆を楽しませる能力があるというわけです。ですから、俳優の立派であるか、へっぽこであるかということは、それは決して舞台の上にあがって、ある役を演じてはじめてわかるのではない。平生、彼が人間として、どこか素晴しい魅力があるかないかということで判断がつくのであります。
そこで、自分の役を立派にやるということに、更に附加える一つの条件がある。その自分というものが立派であるに越したことはないということです。名優というものはそういう意味でどこか立派な自分というものを持っている。そうして、立派な自分というものを、平生立派に演じているわけです。これが名優中の名優です。「どこか立派」と私は云いましたが、これは人間のことですから、すべての意味に於て立派であるということは、望むべくしてなかなか実際にはそうはいきません。例えばいろいろな職業、いろいろな仕事によって、その人間の立派である部分がそれぞれ違っていて差支えないと私は思う。その人の特性というものがすべての点で人に優れているということは理想である。そういうことは事実望めない。それぞれの社会のいろいろな部門で働く人々が、自分の役割を完全に果すうえで、一番都合のいい特質を備えていることが必要であります。しかし、それとは関係なく、ただの人間として、どこか一点、人にすぐれているところがあっても差支えない。
俳優は、そういう具合に、どこか一点人より優れているということが大事であります。俳優の場合は、特にこれが必要だと思う所以は後で述べますが、決して、顔かたちが人より美しいというようなことを指すのではありません。それよりも寧ろ、個性の伸び育った美しさを持たなければならない。その上でその自分を立派に平生演ずるということは、そういう自分を完全に表現するということです。ところが、俳優以外の人は仮りに或る点で非常に立派な個性をもった人であるとしても、しかしそういう立派さというものをどうかすると拙く表現する場合が沢山ある。ですから、見るものが見なければわからないと
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