覚えるが、興行を終へると、間もなく忘れてしまふ記憶力、最初はなかなか覚えないが、一度覚えたら、二年や三年は忘れないといふ記憶力、何れも一長一短であるが、長くかかつて覚え、忘れるのには暇がかからないのや、いつまでたつても覚えず、従つて、忘れる必要もないといふ徹底したのに至つては、さすがに始末が悪い。
 記憶力だけで芝居はできず、従つて、いくら覚えがよくても、それだけで名優にはなれないが、記憶力がいいといふこと、殊に、早く台詞を呑み込むといふことは、いろいろの点で、俳優の強味である。殊に、稽古の日数は大抵制限されてゐるのだから、それだけ、工夫も積めるし、心持に余裕もでき、舞台に立つて不安を感じることも少く、勢ひ、演技に力と熱がはひる。
 ところが、古来記憶力の弱い名優が案外に多いことは皮肉な現象である。日本でも現にその適例があるやうである。
 しかし、台詞を覚えるのが面倒だ、どうせプロンプタアがつくのだからと云つて、横着をきめ込んでゐるのなら、その俳優は、当に、自ら墓の穴を掘るに等しい。
 声と柄と記憶力、これは、上に述べた如く俳優の「道具」である。演奏家の楽器である。良い楽器は傑れた演奏には必要であるが、畢竟、それはそれだけのものである。楽器だけあつても、音楽にはならない。然るに、なんと、楽器だけを褒める聴手の多きことよ。それよりも、なんと、楽器だけに信頼する演奏家の多きことよ。
 次に、柄《がら》といふ問題に関聯して、俳優の精神的能力が、肉体的条件を如何に左右してゐるかを考へてみたい。
 先づ近代人の精神生活、殊に知識階級の思索と瞑想は、その容貌を著しく理智的な陰翳によつて特色づけた。それは、昔から云ふ「悧巧さうな顔」とは違ふのである。「気のきいた顔」とも違ふのである。「鋭い眼光」や「引締つた口元」だけではないのである。時にはもつと複雑な、時にはもつと神秘的な、時にはもつと気まぐれなものである。例へば憂鬱を宿す額、懐疑そのもののやうな瞼、触角の如く動く小鼻、それから、口の結び方――これこそ、凡ゆる教養と性格の閃きである。さういふ近代的顔貌は、今日、日本の若き作家の作品中に於て遭遇するものであるに拘はらず、現在の舞台では殆ど見ることのできないものである。
 それだけならよろしい。当今は、単純な又は無教養な一介の人物をさへ、作家は昔の如く観、昔の如く描いてはゐないのであ
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