俳優の素質
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柄《がら》
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昔から俳優の素質を論じる場合に、誰でも「感性」を第一に挙げてゐるが、これはつまり、他の芸術家の如く、一方に於て同じ程度の「想像力」を必要としない結果、「感性」の必要が著しく目立つからであらう。
ある演劇論者の如きは、俳優には「感性」さへあれば「知力」は不必要だとまで主張したくらゐである。
なるほど、俳優がある人物に扮する場合、その「役の解釈」に、さほど頭を使ふ必要のなかつた時代は、さうであつたらう。つまり類型的な人物はただ「感性」の助けによつて、それを「如何に」表出するかの問題を解決すればよかつたのである。俳優がその「人物になり切る」ことを唯一の仕事とするならば、たしかに「感性」は何よりも大切である。何となれば、その仕事は「模倣」から遠くないものであるから。
然るに、ある種の戯曲、殊に近代劇に於ては、俳優の職分は、決して、ある人物を「如何に」表出すればいいかと云ふ点に尽きてはゐないのである。それ以前に、それ以上根本的な「仕事」が控へてゐる。即ち、「如何なる人物」を表出すべきかといふことである。言ひ換へれば、人物の解釈である。
そこで俳優の素質は、「感性」よりも「知力」に重きをおかなければならなくなつたのである。しかも、「知力」さへあれば「感性」はどうでもいいのではなく、往時の俳優に必要であつただけ「感性」が必要であることに変りはなく、その上、昔の俳優には、さほど必要でなかつた「知力」が、今度は、何よりも必要だといふことになる。
例へば、近松や南北や黙阿弥の中の人物は、それほど複雑な性格をもつてはゐないのみならず、その心理も決して近代人ほどの深さはない。従つて、一と通りの「頭」をもつてゐれば、その人物を正しく「頭の中に描く」ことは困難でなく、従つて「知性」の点でかなり平凡な、時とすると「人並み以下」の俳優が、案外「器用に」その役を演じ活かしてゐる場合があるのである。
これに反して、西洋劇で云へばシェイクスピイヤのある人物、例へばハムレットの如きは、最早「感性」だけでは眼の前に浮んで来ない。(この場合、勿論西洋の役者について云つてゐるのである)ハムレットの性格、心理は、特殊の俳優のみがよくこれを「理解」し得るものであつて、この「理解」なしには如何なる演
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