なるものの陥る弊である。部分的に巧者な芸を見せるといふのはつまりこれを云ふのである。
 旧時代の観客は、又、戯曲そのものの人生的意義や、人物そのものの性格的興味や、舞台そのものの劇的魅力や、さういふものよりも、所謂贔屓役者の「見せ場」を期待し、ただそれだけで好い心持になつてしまふのだから、俳優も、部分的技巧に全力を尽すのは当然であり、その点で傑出しさへすれば名優の名を擅にすることができたのである。さういふ時代の俳優に「頭」がなくてもよかつたのは寧ろ当然である。
 感性と知力とが俳優の才能を決定するものであるとすれば、その才能を発揮するための「道具」は声と柄《がら》と記憶力である。
 所謂美しい声は、必ずしも「良い声」ではない。
 これは恰も、所謂「美しい容姿」が必ずしも、俳優の第一資格でないのと同様である。
 発声の自由と声量の豊富、その上に、他の肉体的条件に適合した「声の質」を必要とする。この適合といふ意味は、常に例へば肥満した体格には太い声といふやうな皮相な観察を基礎にしたものではないのは勿論である。寧ろ、その役柄を主にして、場合場合に判断さるべき性質のものである。
 悪い声を良く聞かせるのは、俳優のまた一つの力である。その力は、声以上の魅力であるに違ひない。この例が古今東西を通じて少くない。
 声は柄《がら》の一部とも見られる。そこで今度は俳優の柄といふ問題である。
 日本でも西洋でも、古典劇には、この柄を基礎にして、所謂「役柄」の制度があつた。
 西洋では、その分類が一層複雑を極めてゐた。このことについては、別の機会に述べるつもりであるが、かくの如く、俳優の容貌風姿を標準にして、その扮する役割を局限した結果が、俳優の職業的関節不随を生ずるに至つたのは当然である。
 今日では、余程この風習は廃れて来たが、まだ類型的人物を、類型的に演出することを以て能事終れりとする「通俗俳優」(この名称は通俗作家の名と共に存在すべきである)の間に於ては、なほ墨守されてゐるやうである。
 柄のみに頼つて、「地」で行かうとする演技、これは、「頭」のない役者の陥り易い誘惑である。
 声と同様、柄も亦、ある程度まで、これを征服し得るものである。否、寧ろ、この征服によつて、最もオリヂナルな演出を見うるのである。
 記憶力は、ここでは、云ふまでもなく、台詞を記憶する力の大小である。
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