責任があるか、それはちよつとわからぬ。人にご馳走をするといふことがあんまり多すぎる現代都会式儀礼の罪ももちろんあるだらう。
 しかし、これは、思ひ切つて社交の精神と形式を一変し、従つて、家庭に於る主婦の仕事を合理化し、女性の社会生活者としての教育をやり直し、人をよぶことの嫌ひな細君や、家庭をのぞかれるのを卑下する亭主が、最も不幸な男女であることを、社会の一般認識とする新生活運動が開始されなければならぬ。たゞ、恐らく、三十年は続けなければほんとうに実績のあがらぬ運動であることを覚悟してかゝるべきである。
 そんなに苦労して、それだけの結果を得たら、ぜんたい国民としてどれだけの得があるかと反問する中老紳士の顔がありありと見える。
 では、市民としての健全な社交生活がいかに国民として非常の時に役立つかを説明しよう。
 日本人は元来、面識のあるものには大変丁寧であるが、見ず知らずの他人に対しては、無礼を案外平気で働く国民である。汽車に乗つたり、宿屋に泊つたりするとそれがよくわかる。また、震災当時東京にゐた某独逸人の観察によれば、日本人は平生と危急時と、どうしてあんなに変つてしまふのだらう。平生は落ちついた、親切な、節度ある国民だのに、一旦周囲が騒然とし、安全が脅かされるとなると、まつたく態度が違つてしまふ。非常に度を失ふ。無我夢中になる。責任のあるものは別だが、さうでないとわれ勝ちに安全を求める。粗暴にさへなる。これは不思議な現象だ。われわれの場合はまつたく逆なやうに思ふ。平生は日本人よりもずつとがさがさし、善行に無頓着であり、時には興奮し易い。しかし、なにか事があると、すぐに、狼狽してはならぬと思ふ。あたりの人のことを考へる。悲壮な善行慾が頭をもたげる。まあ、さういふ風な傾向がある。これはどういふわけだらう?
 すべてがすべてさうではあるまいが、たしかに、さう云はれてみると思ひ当るところがないではない。
 私が思ふに、日本人は、道徳的に利己主義者だといふわけでもなくて、たゞ、「赤の他人」といふ言葉の含む、何の某ならざる人物に対する無意識の疎隔感情が、いかなる場合にも自分を周囲から孤立させてしまふのである。
 日本人の多くは酒の上でなければ腹を割らぬと云はれ、娼婦立合の下にでなければ、裸になれぬ、また裸になつたとみせられぬやうな警戒気分をもち合ひ、友達になつても、友達になつ
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