成り立たせることも可能ではあるが、娯楽そのものゝ本質は、人間が最も自然な姿に於て歓喜し、興奮し、心身の苦痛なしにこれに没頭し得る「遊び」でなければならない。娯楽にはまた、知的なものと感覚的なものとがあるが、その何れを高しとするやうな性質のものではない。娯楽の文化的意義は、決してさういふ見方にあるのではなく、寧ろ、その純粋性と品位にあるのである。
民衆の娯楽は、それゆゑ民衆自身の手になつたもの、民衆の素朴な精神を精神としたものが、一番高い価値をもつ。民衆の欲求は元来健康なものだと私は信じてゐる。これを不健康なものにするのは、民衆を食ひものにする手合の陰謀と術策である。営利業者と独善的な民衆指導者の猛省を促したい。
そこで、都市を中心とする娯楽の徹底的改善は、先づ、都市居住者をして、共同の娯楽を楽しむ時間と余裕とを得せしめることからはじめなければならぬ。
共同の娯楽とは、小にしては家庭的娯楽、これを押しひろめれば、町内隣人と倶にする娯楽、更に進んで、市民挙つてこれに参加し得るていの祝典的催しなどである。この種の共同の娯楽の衰微は、現代日本の全般的徴候であつて、殊にそれが都市生活者の孤独の心理となり、「遊び」は暗黒の中に追ひ求められるのである。
六
都市生活の明朗化のために、私は、以上のやうな娯楽の観念の徹底的反省を要求するが、更に、問題になるのは、市民の雑居的性格である。
第一に、有閑無為の階級もあるにはあるが、勤労者の悉くは、あまりに忙しすぎる。従つて、隣人同士が口を利く機会さへないのである。主婦同士は、近頃、隣組制度のお蔭で、ぼつぼつ近づきになりつゝあるやうだが、男同士は道で遇つても顔を覚えてゐないくらゐである。忙しすぎるといふのは、よく働くといふのとはやゝ違ふと思ふ。お互に自分のことを考へてみればわかる。役所や会社の仕事はだらだらしてゐて、そのくせからだが空かないやうな仕組みになつてゐるし、義理の交際がこれまた勤務時間の延長を強ひるやうなものだし、住居が不便なところだと、帰る前にビールを一杯ひつかけたいし、といふやうなことで、家に帰るともう身心ともにくたくたである。
ラジオでは盛んに岡本さんの「隣組の歌」を合唱してゐるけれども、なんだか、そのへんのサラリーマンは、茶の間の畳の上に寝そべつて、「うちは女房のゐるところ、隣はあつても用がな
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