もなんら「記念」されてゐないのもしかたがない。せめて、社会救済のための、社会教育のための、理想的な施設案を政府並に都市当局に於て、速かに樹てゝもらひたい。これが実行はやはり二十年計画で差支へないのである。私は、新体制国家の少くとも国防完備と同時に、この方面への邁進を熱望するものである。
五
都市生活が、民衆娯楽の営利化といふ面を通じてゞも、一般に享楽的に傾くことは否定できない事実である。しかし、これは、人間自然の要求がそこでは満たされ、またそれがある程度誘発されるといふだけであつて、都会自身のもつ不健全性ではないのである。
不健全なのは、寧ろ、かゝる娯楽機関をあげてこれを営利の具となさしめる為政者の怠慢と、文化意識の欠如である。
わが国では、まだ、官営或は公営娯楽施設などゝいふ言葉を聞いたゞけで、民衆は尻ごみをしさうな気がするけれども、これはもはや、放任しておけない問題である。
尤も、既に早くから、文部省あたりで国民娯楽の研究的調査が進められてゐるとは聞いてゐるが、そして、紙芝居の如きものには、相当の干渉が加へられたといふことも知つてゐるが、国家ひとたび動いて紙芝居を取締る図のなんと本末を誤れるやである。簡単にいふことを聴くものから槍玉にあげるのは、自信と勇気のない証拠である。
今日まで、国民の指導者をもつて任じてゐた人々は、多く芸術と娯楽の区別を知らず、また、娯楽とスポーツ、或は教育とを屡々混同してゐた。
一国の芸術的生産が、現代日本に於ては、殆ど大都市中心に行はれてゐる関係と、娯楽機関の施設が都市、殊にその中央部に蝟集してゐる状態とは、甚だよく似てゐる。
農山村の青年男女が都会生活に憧れる理由の一つは、「いゝ芝居や映画が見られるから」といふのだといふ事実が発表されてゐた。
さうかと思ふと、大都市の郊外居住者は、殊に家庭を守つてゐる主婦や、その監督下にでなければ街へ出られない年少者は、地方の小都市の方がまだましなほど、娯楽施設との絶縁を宣告されてゐるのである。
この不均衡を国民生活の豊富化のために、早くなんとかせねばならぬ。それにはまづ、都市の娯楽のあるものを、農山村に巡回せしめ、大都市の郊外地域をも含めて定期的に移動する、一種の高級娯楽機関の組織を考へる必要があるだらう。
娯楽的要素は、芸術の中にもあり、また、娯楽を芸術的に
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