面白いところで、一般西洋映画の魅力の抑《そもそ》もの土壌を思はせるものである。ヒツトラアに限らず、政治家に限らず、彼等は、田舎の農民一人を取つてみても、肉体的条件を別にして、どこか、人間的に「生活」のこなれた表情をもつてゐるのである。社会的訓練のお蔭ではあるが、日本では、この社会的訓練を補ふ意味の教育が、先づ俳優に授けられるけれど、映画は断じて、見るに堪へるものとはならず、西洋人の前に出して、日本の真の姿を「芸術的」に認識せしめることが困難なのである。芸術的にとは、畢竟、粉飾を施すといふことではなく、「正しい批判を加へて」といふ意味に外ならぬ。一例をあげれば、小学校の内部を映写するとする。小学生はまづよろしいとして、先生が教壇から熱心に何かを教へてゐるところで、現在の日本の俳優は、誰一人スクリーンを通じて、真に先生らしい先生の姿を呈することは不可能なのである。(この際、実物の先生を連れて来ても駄目である)なぜ不可能かと云へば、演技以前の「生活」がないからである。現代の小学教師を正当に「感じ」得る教養と精神がないからである。形は真似るであらう。魂が抜けてゐるのである。俗衆はこれに気がつか
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