ぬこともあるが真の大衆は、何処かに不満を感じてゐるのである。だから、うまく真似れば真似るほど、彼等は「笑ふ」のである。それが喜劇化されてゐない場合に、どうして可笑しいか? 真実のみがもつ厳粛さを欠いてゐるからである。これを西洋人が見たら、まづい役者だと思ふ以上に、日本では、あんな間抜けな教師が小国民を指導してゐるのであらうかと思ふのである。惹いては、日本人全般をこの標準で批判するやうになる。戦争には強いかも知れぬが、工業は猿真似で発達してゐるかも知れぬが、人間としての文化的価値はなるほど低いといふ、軽蔑の第一歩がはじまるのである。豈《あ》に小学教師のみならんやである。映画の宣伝力とは意外にもかくのごときところにある。今日、スクリーンの上の日本人は、殆ど例外なく「真の日本人」を代表してはゐないと見るべきである。ニユース映画に現はれる名士の情けない表情、態度を見せつけられて、日本の見物は内心、冷汗をかいてゐる。俳優は、たゞ、しやあ/\としてゐるだけで、日本の如何なる階級、如何なる職業、如何なる社会的地位の人物にも、正確な調子をもつて扮し得ないといふのが現在の実状なのである。
 この認識から
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