写実に陥らず、社会各層に亘る人物の典型をクリエエトできねばならぬ。実業家に扮したら、面白い実業家に、大学教授に扮したら面白い大学教授になれるといふのは、単に柄だけの問題でなく、実業家の実業家たるところ、大学教授の大学教授たるところを、観察と想像によつて捉へる修業――これは、第一に、俳優としての教養の問題であると思ふ。
 今日の日本の俳優(新劇を含めて)を通じ、所謂「上層知識階級」の人物に扮し得るものは一人もない。同時に、所謂「山の手ブルジョワ」を観察してゐるものも絶無である。軍人も駄目、外交官も駄目、代議士も駄目、ハイカラな社交婦人も慎ましい家庭の主婦も駄目、ああ、これで芝居が出来るであらうか。年齢のせゐもある。が、それよりも、生活が狭すぎ、教養が乏しく、観察の力が足りないのである。つまり、演技に「普遍性」がない原因である。見物は学生ばかりといふ現象はここから生じる。
 日本の文学も、やはり、今、この点で、いろいろ打開策が講じられてゐるといつてよろしい。作家は、何が自分の作品を狭くしてゐるかを考へねばならぬ時である。「狭い」がゆゑに「高い」といふ迷妄を破らなければならぬ。狭いといふこと
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