い話が、今日までの新劇の舞台は、あまりに「新劇的」であり、「新劇愛好者」向きであり、新劇専門家の「ミソ」が多すぎ、普通の人間では、その芝居のどこが面白いのかわからぬといふ場合が多かつたのである。
築地小劇場に於て最もその例が甚しく、その余波を受けて「大衆的」と標榜する諸種の新劇団――「新東京」にしろ、美術座にしろ、テアトル・コメディイにしろ、殊に、演劇集団の名に於て試みられた一、二回の興行は、その悪弊を露骨に示してゐた。先日、新宿松竹座に「にんじん」なるメロドラマ(?)を観たのであるが、さすがに演出者としての村山知義君の才気を窺へはしたが、これが、凡そ「新劇的手法」のおさらひのやうなもので、あつけにとられてゐる見物が多かつた。村山君の意図は恐らく別にあつたのかもしれぬが、結局、啓蒙運動としてはお粗末であり、大衆劇としては専門家すぎると私は思つた。新鮮にして且つ普遍性をもたせるといふことはなかなか困難な仕事であるが、新劇の前途のために、われわれは功を急いではならぬと思ふ。(後で聞くと村山氏の関知せざるものだとのこと)
作家のうちの「専門家」は蔭にかくれて、俳優の「新劇趣味」を封じ、悪
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