は、ある意味に於て純粋さを語るものに違ひないが、純粋さは、必ずしもそれ自身、価値を生じるものではない。
 一方では、専門家同士の間にしか通用しない作品といふものがあつてよろしい。しかし、それだけが優れた芸術の全部だとはいへない。
 私が、嘗て純粋演劇の問題を取り上げたのは、専門家の研究対策としてである。今ここに、舞台の普遍性を唱へるのは、新劇の発展と自活のためである。しかも、演劇の本質は、演劇の純化作用を経て、その面目を発揮し、その本質の誤らざる摂取と利用によつて、演劇の普遍性を導き出さねばならぬといふのが、私の説である。
 演劇をはじめ、総ての芸術は、通俗化の方向をとる時、その本質に背を向けはじめることは、いふまでもない。演劇を通俗化するために選ばれる方法は、現に、多く、「演劇的ならざるもの」の濫用と重大視ではないか。(一九三四・七)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第三巻第七号」
   1934(昭和9)年7月1日発行
入力:tatsuk
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