家がある。それを批評家の特権と心得または義務とさへ心得てゐるとすれば、止んぬる哉である。
 これなどは、実際さう思はれるやうな作家にぶつかることがあるのだから、軽蔑のあまり我を忘れて叫んだと見れば、まあ許されないこともないが――批評家も人間なんだから――然し、許されないのは――彼等が苟くも一個の芸術家である以上――作品中の人物にまで、此の種の評価を下して、それが文芸批評だと思つてゐることである。
 滑稽な話ぢやないか。「此の人物の性格には同情が持てない」だとか、「此の主人公はエゴイストだから嫌ひだ」とか、「あの妻君の方は普通のありふれた女ぢやないか」とか、「こんな男がゐたら社会に害毒を流すばかりだ」とか、「此の二人の男女は恋愛を遊戯視してゐる。怪《け》しからん」とかやれなんとか、かんとか、こんなことをいふ批評家の顔が一寸見たいと思ふが、扨《さて》合つて見ると、その男こそあんまり同情の持てない性格の持主であつたり、人並以上エゴイストであつたり、普通ありふれた男であつたり、社会に害毒を流しさうな男であつたり、恋愛を遊戯視してゐる男であつたりするのであらうから、なかなか面白い。

 作中の人
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