おれはまたうどん[#「うどん」に傍点]だ。愛子の奴、なにしてるか見て来てくれ。平気な顔してたら、ちよつとここへ来るやうに云ひなさい。

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らくと入れ違ひに、悦子が現はれる。
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悦子  たうとう帰つたわね。どうなるかと思つたわ。
一寿  話を聞いたか? 阿呆らしい話を……。
悦子  阿呆らしいつて、あれ、愛ちやんが悪いのよ、きつと……。
一寿  どつちにしてもさ。阿呆らしいのはわしだ。わかつたやうなわからんやうな、妙な話もあつたもんさ。愛子はお前に何か云うたかい?
悦子  両方の話を綜合すると、あたしには、ほぼ見当がつくわ。
一寿  そりや、わしにもついとる。愛子の奴、手でも握らせよつたんぢやらう。
悦子  さあ、それくらゐならね、向ふもああまでは云はない筈よ。
一寿  さうか知らん……。
悦子  あああ、人つてわからないもんだわ……。
一寿  どうでも、こいつ、白状させてやらう。

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そこへ愛子が、なんでもないやうな顔をして現はれる。
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愛子  あら、姉さん、ここにゐたの?
悦子  あつちへ行つてようか?
愛子  どうして? かまはないわよ。パパ、なんか御用?
一寿  まあ、そこへ掛け給へ。お前は一体、あの田所といふ男を、どう思ふ?
愛子  どうもかうもないわ。ただうるさいと思ふだけよ。
一寿  さういふ風にうるさくするのには、なんか男の方に訳がなければならん。早く云へば、さつき話したやうな、お前の何処かに、相手を乗じさせる隙があつたといふことだ。お前は、そんなことは知らんといふかも知れんが、向ふは慥かに、証拠を握つとるやうなことを云ふんだぜ。わしもそれ以上は訊ねもせず、あの男も、流石にかうとは云ひ切らなんだが、なんとなく、わしは、お前の方に弱味があるなといふ気がした。あの場合、会はんといふものを、強ひて会はせるほどのこともないと思つたから、まあいいやうに追つ払つたが、こいつはひとつ、わしの耳に入れといてもらはんと困る。強いことを云うて、あとで引つ込みがつかんやうになつたら、赤恥をかかにやならん。わしは、それを心配しとるんだ。あの男は、船乗りにしちや分別もあり、年のわりに純なところもある。話のしやうでは、以前は以前、今は今といふことぐらゐ解りさうなもんだと思ふ。そこは、呑み込んでかかりさへすりや、わしにも手心があるしな。知らん存ぜぬ一点張りでは、まづいぞ、こりや……。

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沈黙。
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悦子  あたしが口を出しちやわるいけど、こないだもそこを云つたのよ。ひとりで苦しんでるのは損よ。
一寿  (悦子に)お前はやつぱり、あつちへ行つてなさい。

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悦子は、更に、愛子の耳元で何か囁いた後、妙にいそいそとその場を立ち去る。
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一寿  そんなら、向ふが、かういふことを勘違ひしてるんだなと思ふやうなことがあつたら、それを云つてごらん。
愛子  …………。
一寿  こつちはそのつもりでなくつても、男の方で、いい気持になつてるかも知れんといふやうなことはないか?
愛子  (素つ気なく)さういふことなら、いくらだつてあるわ。
一寿  あるか、なるほど。ぢや、いちいち、挙げてみなさい。
愛子  (相変らず、人ごとのやうに)先づ、新宿で切符を受け取るとき――あの人がみんなのを買つてくれたの――そん時、あたし、その切符を受け取る拍子に、あの人の指を一緒につまんぢまつたの、はつと思つて、顔をあげたら、あの人、真つ赤になつて、なんべんもお辞儀してたわ。
一寿  (考へて)うむ……それから……?
愛子  電車から降りる時、あの人、網棚の上へのつけてあつたお弁当の包みを、ひとりで下ろさうとしてたから、あたし、何気なくそれを、ひとつひとつ受け取つてやつたのよ。すると、いちいち、すみません、すみませんつて勘定するみたいに云ふから、――すまないことないわつて、ただそれだけ云つたの。さうしたら泣きさうな顔して、あたしの眼、ぢいつと見てた。
一寿  (考へて)ふむ……それはそれだけだね?
愛子  ええ。それから、青梅電車の中で、ほかに人が少なかつたもんだから、みんなとてもはしやいで、歌を唄ふかと思ふと、お互に悪口の云ひ合ひをしたり、とても大変なの。あたしは、だまつて聞いてたんだけど、――一番なんとかはだあれだ――つていふ問題を一人が出すとあと四人が一緒に応へるつていふ、子供みたいな遊び、兄さんが発明したの。――一番おすましはだあれだ――つて、それはお姉さんが出したのよ。さうしたら、兄さんと岡田さんが、一緒に――タドンコロンつて、あの人の綽名よ、さう云つたら、あの人がいきなり、――僕の隣りの人つて云ふの。あたしのことよ。でも、多数決だから、あの人の負けよ。その次ぎ、岡田さんだつたかが――一番黒いのだあ……つて云ひかけた時、あたし、丁度、コンパクトを出してたもんだから、いきなり、それで、――この人つて、指さうと思つたら、それが、生憎、あの人の鼻へさはつちやつたの。
一寿  (考へて)白くついたわけだね。(長い沈黙)で、あとは、みんなその程度のことか。もそつと、深刻なのはないか?
愛子  ぢや、みんな云つちまふわ……。ほら、みんなが酔つ払つて、宿屋へ泊らうつてことになつたでせう。男三人と、女二人、もちろん別々の部屋に寝たのよ。そのうちに、男の方で、ぐうぐう鼾が聞えて来たわ。ただ、そのうちで、あの人だけが、何時までも歌を唄つてるの。低い声だけど、節なんかはつきり……。
一寿  寝言ぢやないんだな。
愛子  ええ。姉さんは、蒲団を引つかぶつて、何処が頭だかわからないやうにしてるし、あたしは、それができないから、明るい電気の下で、眼が冴えて眠られないぢやないの。かすかに、流れの音が聞えて来て、あの人のバスにそれが交ると、寝返りを打つのも怖いやうな静かな晩になつたわ。
一寿  隣の部屋との唐紙は閉めてあつたのか。
愛子  それがよ。閉めてあつたのよ。でも、少し隙間が開いてるもんだから、あたし、気になつて……ひよいと、何気なく手を伸ばして、それを閉めようとしたの……。その手をぐいとつかまれた時、あたし、もうなんにも見えなかつた。声も出なかつたの。ハツと気がついてみると、部屋が真つ暗になつてて、……外には風が出てゐたらしいわ。雨戸が頭の上で、ゴトゴト鳴つてゐたの……。
一寿  たしかに、あの男だとわかつてたんだね。
愛子  (急に、つめ寄るやうに)わかつてたらどうなの? あたしの責任なの?(激しく)いやだわ、いやだわ……そんなの、なんにもなかつたのとおんなじだわ。最初から最後のものを与へるなんて、そんな馬鹿な女どこにもないわ。さういふことが、何の証拠になるの? 男が、それで、何を得たと云へるの? 自惚れるがいいわ、勝手に……。約束なんて、それがどんな約束なの? 愛してる証拠なら、ほかにあるわ。いくらだつてみせられる……。さうよ、なぜ拒まなかつたかつて云ふんでせう。ああ、女つて、そんなもんぢやないわ……。(卓子に突つ伏す)

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この時、悦子が忍び足で、入口に現はれ、父の方に眼くばせをして、快げな微笑を送る。一寿は、それに応へる代りに、静かに瞼を閉ぢる。
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悦子  (そつと愛子の肩に手をかけ)大丈夫よ、大丈夫よ、愛子ちやん……。あたしたちが附いてるわよ。長い間、ひとりで苦しかつたでせう。可哀さうに……。そんな秘密をあんたが持つてると判つたら、あたしは、もつともつとあんたを労はらなけりやならなかつたんだわ……。遠くにゐたあんたが、今、急に、こんなにあたしたちの近くへ戻つて来ようなんて……それこそ、夢のやうだわ……。だから、あたし、悲しいのか、うれしいのかわからない……。さうよ、葬らなけりやならない過去は、早く葬つてしまはう……ね。あんた、まだ泣いてるの……?
愛子  (急に顔をあげ)うゝん、泣いてなんかゐない……(その通りである)
悦子  もつと、あたしのそばへ寄りなさいよ。
愛子  ええ、ありがたう……。だけど、あたしたちは、姉さんの云ふやうに、近くなつたなんて、うそだわ。大うそだわ……。
悦子  あら、どうして?
愛子  (冷たく)パパ、あたしは、今日から、この家を出てくわ。なんにも心配しないで頂戴ね。いろんなことが、だんだんわかつて来たからだわ。自分の生活は、お父さんや姉さんのそばにないつてことがわかつたの……。(入口に立つてうしろを振り返り)居所がきまつたら、すぐお知らせするわ……。
一寿  おい……愛子……。

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愛子姿を消す。
悦子は、しばらくそれを見送つてゐるが、ふと、父の眼に涙を発見し、急いで、自分もハンケチを取出す。
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     三

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あるアパートの一室。正面に扉。右手に窓。左手に幕を引いたアルコーヴ。寝台の一端が見える。室の中央に瀬戸火鉢。
前場より二年後の冬、昼近く。
扉をノツクする音。
寝台から、むくむくと起き上つた男は、無精髭を生やした沢一寿である。彼は、扉を開けに行く。奥井らくが立つてゐる。
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一寿  なんの用だ!
らく  さう突慳貪に云はないで下さいよ。はいつちやいけないんですか。
一寿  用事を早く云つたらいいだらう。
らく  それぢやあなた、風邪を引きますよ。いいんですか。
一寿  (渋々、引つ返して丹前の袖を通しながら)今日は娘たちの来る日なんだ。また見つかると、わしはいやだよ。
らく  だから、すぐ帰りますよ。(さう云ひながら、火鉢のそばに蹲る)
一寿  ねえ、おい、今の境遇ぢや、さうさうは困るよ。もう就職も、わしは思ひきつた。神谷の奴も、てんで相手にしてくれず、この年になつて、方々へ頭を下げて廻るよりは、かうして細々と暮してゐた方がましかも知れんと、近頃やつと覚悟をきめたんだ。
らく  愛子さんの方からは、ちつと、どうかできないんですか。
一寿  それだけは勘弁してくれ。あいつも、来るたんびに、なんか置いてかうとするが、わしは断然、そんなものは受取らんと突つ返してやる。毛唐の女房になつて、楽をしようつてぐらゐの女だ。娘は娘でも、こつちから弱味をみせたくないんだ。
らく  あたし一人だけなら、今のでどうかかうかやつて行けるんですけど、桃枝を学校へ出すとなると、こりや無理にきまつてるんです。悦子さんに、あたしからお詫びしてもかまひませんから、元々どほりにしていただけないでせうか?
一寿  元々どほりつて、三人が一緒に暮すことかい。そいつは、もう真平だ。お前と悦子の間に挟まつて、わしはどれだけ苦労したか、まあ考へてみてくれ。ほかの理由でならとにかく、お前との折合ひが悪くつて、あいつが出て行くといふもんを、それならさうしろと、このわしが云へるか。妙な意地で、三人がばらばらになつた。それでも、そのためにわしは双方への顔がたつた。もう、これでよろしい。なんにも変へる必要はない。そうつとしといてくれ。
らく  あたしも、最初伺つた時は、あんなことになるつもりはなかつたんですからね……。
一寿  それを、今云ひ出してどうするんだ。
らく  どうしようていふんぢやないんですよ。自分で自分がわからないつてことを云つてるんです。今日も月謝のことで桃枝とすつたもんだの挙句、ふらふらつと、ここへ来てしまつたんです。
一寿  ふらふらつとなら、もうちつと気の利いたところへ行くとよかつた。五円はおろか、二円も覚束ない、今のところ……。
らく  へえ、今日がお二人の見
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