一度愛子さんの心持を訊いてもらつたことがあるんです……。
一寿  ほう、すると……?
田所  むろん、手紙でなんですが、そのお返事つていふのが、まつたく予想外で、僕はそのために、却つて、愛子さんの真意がわからなくなりました。つまり、その文句によりますと、――田所といふ男は、名前も顔も覚えてゐない。従つて、なんらの関心も持つてゐない。何れにせよ、自分はもともと結婚はしないつもりなんだから、その話はこれきり打切つてもらひたい……。
一寿  結婚せんつもりだつていふのかね。へえ、そりや僕も初耳だ。そんなら、君、ほつとき給へな。
田所  いや、結婚するしないは別として、僕の名前も顔も忘れてゐられる道理はないと思ふんです。まる二日、ああして、一緒に顔をつき合はしてゐたんですからね。お宅で一日御厄介になつた挙句、翌日は、みんなで奥多摩へピクニツクをしました。途中、冗談も云ひ合つたり、すつかり仲好しになつたつもりなんです。
一寿  岡田君とごつちやになつてるんぢやないかね?
田所  まあ、しかし、そのことは、一度お目にかかりさへすれば、解決がつくと思ふんですが、今日の様子では、それもむづかしいやうだし、近いうちにまた出直して来ませう。ただ、僕が来たことについて、何か誤解をされてゐては困るんです。会ひたくないと云はれるんなら、たつてとは云ひませんが、さうなると、僕の方でもその理由を伺つておきたい気がします。
一寿  待つてくれ給へ。どうもよく腑に落ちんが、君の言葉の調子でみると、愛子は君の意志を知つてゐて、わざと顔を見せたがらんのだといふやうに聞えるが、それなら、君も返事を聞く必要はないんぢやないのかね?
田所  返事よりも、理由です、僕が聞きたいのは……。
一寿  なんの理由……。
田所  返事のできない理由です。
一寿  返事ができるかできんか、まだ訊ねてもみないぢやないか。
田所  わからないかなあ。さつき云つたでせう。初郎君への返事は、まるで返事になつてゐません。
一寿  或は、それが返事の代りかも知れんな。
田所  さうおつしやるのは、あなたがまだ、肝腎な点を御存じないからです。僕たちの間柄を、普通なもんだと思つてらつしやるからです。
一寿  穏かならんことを云ふぢやないか。男女の間柄を、普通でないといふと、どういふことになるね。
田所  愛子さんを此処へ呼んでごらんなさい。僕の前へ立たせてごらんなさい。すぐにお察しがつくと思ひますから。

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一寿は、茫然として一つ時相手の顔を見つめてゐる。が、やがて、起ち上つて、奥にはいりかける。しかし、そのまま、思ひ返して座に戻る。
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一寿  とにかく、いづれ僕から愛子に話してみよう。一旦、君は帰り給へ。さういふわけなら、この間題は僕が預つた。
田所  それはかまひませんが、近いうち、一度愛子さんに会はせていただけるでせうか。
一寿  その必要があればね。双方のために会はん方がいいといふことになれば、つまり、必要がないわけだ。
田所  いいえ、それはあなたの方の御都合できまるわけでせう。僕の方は、どうあつても、愛子さんの口から、一言、はつきりした御返事を聞きたいんです。
一寿  「否《ノー》」といふ返事なら聞くに及ぶまい。
田所  ところが、ただ「否《ノー》」では、僕が承知すまいとおつしやつて下さい。
一寿  承知せんといふのはどういふ意味だね。
田所  満足できないといふ意味です。
一寿  そりや無理だ。どんな約束をしたか知らんが、当人同士の約束だけでは、正式の約束とは云へん。第一、親の僕が、与り知らんといふ法はないぢやないか。
田所  あなたは、一切干渉をなさらない方針ぢやなかつたんですか。
一寿  今はさうだ。しかし、娘がそんな約束ぐらゐに縛られて、身動きができん羽目に落ちてゐるなら、吾輩は、断じて、約束なるものを取消させる。こりや当り前だらう。
田所  今ここで、何を云つても無駄なやうですから、愛子さんにお目にかかれる機会を待ちませう。僕は、話さへわかればいいんです。決して、男らしくない真似はしないつもりです。ただ、いくら世間を識らないお嬢さんでも、自分の行為に責任をもてない筈はありません。相手の面目を潰さないぐらゐのことは心得てゐて欲しい。過去は過去として認めた上で、現在の立場を明かにする方法は、いくらでもあると思ひます。
一寿  過去と云はれるが、それも序に聞いておかう。いつたい二人の関係といふのは、どの程度まで進んでゐたんですか?
田所  それを、はつきり申上げるためには、愛子さんの同意を得なければならないでせう。かまひませんか?
一寿  そいつはかまはんと思ふが……いや、待ち給へ。君にそれだけのデリカシイがあるなら、僕も、強ひて訊くまい。愛子から云はせることにしよう。かうつ[#「かうつ」に傍点]と……では、またといふのもなんだから、君、しばらく、悦子と話でもしてゐてくれ給へ。僕は、ちよつと愛子の様子を見てくるから……。

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一寿が奥へ引込むと、入違ひに悦子が現はれる。
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悦子  (小声で)妹はどうしてああでせう。お目にかかるのが恥かしいのか知ら……。あたくし、お手紙のこと、知つててよ。
田所  ああ、僕の手紙ですか。愛子さんは、ほんとに読まないで破いちまつたんでせうか。兄さんのところへは、さう云つて来てましたよ。どうも、そいつが信じられないんだ。
悦子  あたくしにも、絶対、あなたのことは隠してるんだから、不思議だわ。でも、今奥で話したけれど、あの女《ひと》たしかにどうかしててよ。そりや、気分もわるいにはわるいんでせうけれど、御挨拶ぐらゐできない法ないつて、あたし、さんざん勧めてみたの。駄目ね。変りましたよ、以前と……。冷たいつていふのか、強いつていふのか、あの頃から見ると、女らしいところなんかすつかりなくなつたわ。自分でも、それを努めてるつて風ね。でも、あなたに対する気持には、たしかに、自然でないところがあるわ。詳しい事情はよく知らないけど……。
田所  事情は、大体、今お父さんにお話したんですが、どうも、一方的な説明は、こいつ、しにくくつて……。
悦子  (好奇的に眼を見張り)あら、そんな深い事情がおありになるの? うそでせう。いくらなんでも、たつた二日の間に。そこまで行けるか知ら……?
田所  行つたんだから仕方がないでせう。
悦子  妬いてると思はれちやいやだけど、あの子、あたしなんかより、ずつと大胆だわ……。
田所  あなたには、むろん、第一に親しみを感じますよ。
悦子  (そこにある急須に手を触れてみて)少しおぬるいか知ら。

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間。
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田所  学校の方は、まだお止めになりませんか?
悦子  停年には間がありますもの。
田所  いや、さういふ意味でなく、相変らず、興味をおもちですか?
悦子  職業としてでは、もつと柄に合つた仕事がありさうに思ふんですけれど、あそこにゐると、贅沢がしたくなくなるので、それが何よりですわ。自分の生活に、慾望を起さないといふ境遇は、外に考へられませんもの。毎日、貧乏な子供の家庭を訪ねて廻るのも、驕つた気持でするのとはまた別ですからね。こつちの懐をいためない程度で、さういふことをする慈善家たちと違つて、あたしは、有りつたけのものをみんな、洗ひざらひ放り出すんですの。一銭のお金でも、自分のためよりは、餓ゑてゐる人達のために使ふつていふのが、むづかしい理窟はぬきにして、今のあたしにとつて、生き甲斐みたいなもんですわ。
田所  生れつきですか?
悦子  どうせ気まぐれなんだから……。子供のころの、なんとなく薄暗い生活が、かういふ人間を作つたんでせう。やつぱり、お弁当のおかずで卑下をした記憶が、どうしても抜けきらないからよ。
田所  初郎君からもよくそんなことを聞かされましたよ。お父さんのお留守中でせう。でも、あなた方御|同胞《きやうだい》三人は、性格的に、まるで極端と極端のやうですね。
悦子  兄は暢気でしたね。
田所  暢気つていふのか、とぼけてるつていふのか、平気で思ひ切つたことをやりましたよ。これは内証だけれど、船で泥棒をした苦力を南京袋へ押し込んで、海ん中へぶち込んぢやつたりしてね。
悦子  え? そして……?

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その時、一寿が現はれる。
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一寿  別々に話を聞いたんでは、どうもよくわからんが、……(悦子のゐるのに気づき)あ、お前は遠慮した方がよからう。(悦子の姿が消えるのを待つて)さつきの君の話は、たしかなんだらうね。当人は、君のことを忘れてはをらん。これは、現に当人が前言を取消したんだから安心し給へ。ところで、君との関係だが、君の云ふやうな約束に類したことは、絶対にしてをらんと云ひ張るんだがね。その点は、何か君の勘違ひぢやないか? 或は、思ひ過しとでも云ふか。
田所  (苦笑して)さうすると、僕が、余つぽど間抜けな男になるわけですが、それを事実について申上げることは、なんとしても忍びません。自分自身のために忍びないんです。しかし、あなたの公平な御判断で、愛子さんが、僕に会ふことを拒まれる点の理由を突きとめていただきたいもんです。
一寿  会ひたくないから会はんといふ理由も、紳士に対する礼は別として、我儘な女としては、成り立たんこともないと思ふが……それでは、父親の僕が相済まんわけだ。そこは、平に御容赦を願ふとして、いいかね、今日はひと先づ、あいつの我儘をゆるしてやつて下さい。人間は感情の動物といふが、女はまた格別だ。まあ、気分が悪いといふ口実を設けよつただけでも、あいつにしては可愛らしいと、そこは、男の方で腹を見せてやり給へな。
田所  僕は、女の心といふものをそれほど深く識つてる筈もないんですが、愛子さんのその態度は、まつたく、不可解と云つたぐらゐでは済まされないもんです。そちらで、飽くまで事実を否認なさるんなら、それで僕も万事を了解しませう。ただ、最後のお願ひとして、その一言を、愛子さんから直接伺ひたいもんですが、どうでせう?
一寿  それがさ、君、今云ふ通り……。なにしろ、二十四と云つても、女はまだ子供だ。一人歩きはできんのだよ。自分を求めてゐるのだと知つた相手に対して、婉曲な拒絶の方法など考へられるものか。そこで、気分が悪くなつたり、腹痛を起したりする……。
田所  いいえ、僕は婉曲な断り方なんかして欲しくありません。はつきり、厭やなら厭やで結構です。但し、僕としては、愛子さんになぜ、こんな卑怯な、そして歯痒い取扱ひを受けなけりやならないのか、なぜもつと堂々と、僕に会ひたくないなら、ない――好意がもてなくなつたら、もてなくなつた釈明をしてくれないのか、その点だけを訊ねたく思ふんです。でなければ、僕は諦めるにも諦められないぢやありませんか。いつたい全体、この家ぢゆうの者がどうかしてるんだ!
一寿  大きな声を出さないでくれ給へ。隣近所があるんだぜ。印度洋の真ん中と違ふよ。
田所  印度洋の真ん中なら、あなた方の命《いのち》は、もうとつくになくなつてる筈だ!

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彼は、憤然と席を蹴つて、入口の方に去りかける。一寿は、慌ててそれを遮らうとするが、彼の出て行く方向が玄関なので、ほつとした形で、その後姿を見送つてゐる。
しばらくすると、らくが、おどおどしながらはいつて来る。茶器を片づけはじめる。
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らく  お昼はどういたしませう。
一寿  (その方を見ないで、やや無言。やがて)今の話を聞いてゐたか?
らく  いいえ……ええ、ところどころ……。
一寿  昼は、
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