沢氏の二人娘
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)この家《うち》
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(例)あなた方御|同胞《きやうだい》
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沢 一寿
悦子 その長女
愛子 その次女
奥井らく 家政婦
桃枝 その子
神谷則武 輸入商
田所理吉 船員、悦子等の亡兄の友人
東京――昭和年代
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一
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某カトリツク療養院の事務長、元副領事、沢一寿(五十五歳)の住居。郊外の安手な木造洋館で、舞台は白ペンキ塗のバルコニイを前にした、八畳の応接間兼食堂。
古ぼけた、しかし落つきのある家具。壁には風景画と、皿と、それらの中に、不調和にも一枚の女の写真が額にしてかけてある。三十五六の淋しい目立たない顔である。丸髷に結つてゐる。飾棚には、細々した洋風の置物。記念品らしい白大理石の置時計。バルコニイの手摺に色の褪せた副領事の礼服が干してある。
十月の午後。
家政婦奥井らく(三十八歳)が、卓子の上で通帳を調べてゐる。
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らく (通帳から眼を離さずに)桃枝、桃枝……桃ちやん……。(返事がないので、起ち上つて扉の方へ行く。出会ひがしらに水兵服の少女が現はれる)さつきから呼んでるのに……何処へ行つてたの? ご不浄?
桃枝 (首をふりながら、なんとなくもぢもぢしてゐる)
らく (嶮しく)二階へ上つたね。なぜ、黙つてそんなことをしますか? ここはお前の家ぢやないんだよ。
桃枝 …………。
らく (なだめるやうに)今これがすんだら、お茶でもいれるから、あつちのお部屋で雑誌でも読んでらつしやい。
桃枝 ひとりぢやつまんないわ。もうそんなもんのぞかないから、母さんあつちへ来てよ。
らく 駄目、駄目、うるさくつて……。
桃枝 だつてあたし御手伝ひするつもりだつたのよ。(間)母さん月給いくら貰つてんの、あててみませうか?
らく 当てなくたつてようござんす。
桃枝 あたし学校を出たら、その月から三十円稼いでみせるわ。
らく どうぞ御自由に……。
桃枝 さうさう、伯父さんてばね、あたしみたいな娘、女学校へ通はせとくのは勿体ないんですつて……。
らく ほんとだよ。
桃枝 少女歌劇へ出たら、さぞ人気が出るだらうつて云ふの。
らく 馬鹿だ、あの伯父さんは……。さ、そいぢや、これは後のことにして……。お前、ちよつと火鉢のお火をみといておくれ。(干してある礼服の埃を払ひ、それを持つて奥にはいる)
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桃枝も、一旦奥へはいるが、再び現はれて卓子の上の通帳をめくつてみる。眼を見張つたり、口を尖らしたり、笑ひを噛み殺したりする。やがて廊下に跫音。急いで、素知らぬ風を装ひ、バルコニイの方へ歩を運ぶ。
らくがコサツク帽を手にもつてはいつて来る。
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桃枝 なあに、それ?
らく トランクの底から出て来たの。
桃枝 これで帽子だわ。
らく 惜しいことに、こんなに虫がついて……。
桃枝 (独語のやうに)なんだか変ね、この家《うち》……。こんな帽子かぶる旦那さんがゐてさ、十年も前に死んだ奥さんの写真が、あんなところに飾つてあつてさ……。
らく (帽子をバルコニイの手摺にのせながら)それがどうして変だい。お前こそ、子供らしくないよ、余計な事にこせこせ気がついて……肝腎の勉強はお留守でせう。(間)今日はもう遅いから、お茶はこの次のことにして、その代り、ぽつちりだけど、お小遣をあげよう。(帯の間から蟇口を出し、五十銭銀貨を一つ渡す)
桃枝 いいの、貰つて?
らく 遠慮する柄かね。でも、一人で活動なんかへはいるならあげませんよ。
桃枝 ふふ……ぢや、あたし……。
らく あ、ちよつとお待ち……ことによつたら、今日は、お嬢さんたちお帰りがおそいかも知れないから、お前あたしと一緒にごはんたべてかない?
桃枝 ええ、ご馳走があれば……なんて……。
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その時、扉の入口へ、沢一寿の姿が現はれる。
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一寿 ほう、来とるな。
らく おお、びつくりした。何時お帰りでしたの? 玄関は開きましたんですか。(娘を追ひ出すやうにする)
一寿 もうぢき、お客さんがみえるから、何時かの葡萄酒を出してな。それから、飯はどうなるかわからんが、ともかくスキ焼ぐらゐできるやうに支度をしといてくれ。なに、仰々しいことはいらん。うちうちの客だ。今日は突然、電話で病院の方へやつて来るつていふから、そんなら、家《うち》へ寄れつて云つてやつたんだ。こつちからはよく訪ねるくせに、向ふからついぞ来たことのない男さ。おや、あの娘《こ》は何処へ行つた? もう帰したのか? 何ぞもたしてやるんだつたのに……。おい、上から部屋着をもつて来いよ。ああ、疲れた。トレ・フアチゲだ。(巻煙草に火をつける)
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やがて、らくが派手なガウンを持つて来る。一寿は、ワイシヤツの上にそれを着て、右手をらくの肩にかけ、頬に軽く接吻をするが、女は無表情のままそれを受けたきりで、そつとからだを引く。
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らく (相手の耳が遠いのに慣れてゐるらしく)お茶は苦い方にいたしませうか?
一寿 ああ、うんと濃く出して……。それから、外套のカクシに夕刊がある。
らく 只今……。
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らくの後姿を見送りながら、煙草の煙を長く吐き出して、民謡風の曲を低く口吟む。らくの持つて来た夕刊を受け取り、読みはじめる。茶が来る。音を立てて啜る。日が落ちかける。表に自動車の止る音。
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一寿 やつて来たな。(間もなく呼鈴が鳴る)よし、よし、おれが出る。いや、お前出ろ。丁寧にな。
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らくが玄関に出る。その間、一寿はまた夕刊を取上げる。落ちつくためである。そこへ、らくが名刺を持つてくる。
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一寿 (さも今思ひ出したやうに)おお、さうか。さあ、さあ、こつちへお通しして……。(扉のところまで出迎へながら)いよう、これはこれは……。すぐわかつたかね。
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客は、これも元外務省書記生で、今日は輸入商として相当産をなしたと伝へられる神谷則武(五十二歳)である。
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神谷 わかるにはわかつたが、訪問には悪い時刻になつたな。いや、実は、今夜ね、ある男に会ふことになつてるんだが、その前に、是非ちよつと君に話しときたいことがあつてね。
一寿 まあ、ゆつくりしてつてくれ。なんにもないが、晩飯にスキ焼でもつツつかう。久し振りで、巴里時代を演じようぢやないか。白葡萄酒《ヴアン・ブラン》も、口を開けないのがある。
神谷 まあ、待つてくれ。今日はさういふわけにいかん。今云つた通り、約束があるんだ。
一寿 え?
神谷 約束があるつて云つてるんだよ、人に会ふ……。
一寿 いいさ、いいさ、約束なんか取消したまへ……。君の細君はうまい日本語でさう云つたことがあるぜ――「日本人の時間、どうにでもなります」つて……。
神谷 (あたりを見廻して)やあ、いろんなものを、ちやんと持つてるね、君は……。見覚えのあるものばかりだ。あの皿は、ストツクホルムで一緒に買つたもんだ。ね、さうだらう……。あの会議に行つた連中ぢや、残つてるのは笠原だけさ。こないだ土耳古から帰つて来た。たうとう参事官まで漕ぎつけやがつた。どうだい、病院の方は……? 多少慣れたかね。パスポートに判を捺すのとはどつちが楽だ?
一寿 一日中薬の臭ひを嗅いでるつていふのは、面白いもんだよ。外へ出るとなんだか、鼻を忘れて来たやうでね。まあ、大きなことは云へないが、これでも、事務長さんで、年が物を云ふから有難いよ。副領事になると、とたんに、首が飛んだなんてこたあ、誰も知りやしない。海外放浪二十年、多少は法螺も吹けるしね。若い医者を煙に捲くぐらゐなんでもないさ。(紅茶を運んで来たらくに)そんなものより、葡萄酒の方がいい。平民的に行かう。忘れたかい、クレベエルのカフエーでさ、月給前になると、――エ・ギヤルソン、ドウウ・ブランなんて呶鳴つたもんだ。
神谷 競馬で摺つた後なんかもね。さう云へば、この奥さんだな、(壁の写真を見ながら)苦労をさせたのは。留守宅俸給を逆為替で捲き上げたりなんかしてさ。
一寿 (葡萄酒の栓を抜きながら)いや、ほんとの苦労は、それから先だ。マドリツドで首を切られた後、十年間義務不履行といふ時代があつたんだ。女房は、しかし、泣きごとを云つて寄越さなかつた。吾輩は、アルヂエリヤへ渡つて、一と旗挙げるつもりでゐたところが、ほら、欧洲大戦だ。まあ、一ついかう。目論見は外れる、かへる旅費はなしさ。ええい、糞ツていふわけで……。
神谷 義勇兵だらう。その話は聞いた。
一寿 さあ。(杯を挙げる)
神谷 (これに応じて)レジオン・ドヌウルの健康を祝す。
一寿 千九百二十四年の夏だ……女房危篤の知らせで……。
神谷 実は、話といふのは、ほかでもないがね……。(時計を見る)
一寿 え?
神谷 お嬢さん方はまだお勤めか……。何時頃だい、退けるのは?
一寿 上の奴は、今日は夜学へ出る筈だ。下の奴はもうぢきに帰つて来る。
神谷 夜学にまで引つ張り出されるのか?
一寿 自分で志願したんださうだから、世話はないさ。なんでも、その方は無給でやつてるらしい。
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間。
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神谷 君も長男を亡くしたとなると悦子嬢には養子だね。
一寿 オー・ノン・メルシイ。
神谷 さうか、我党の士だな。うん、時にその話だがね、愛子さんの方を先に片づけるつていふのはまづいかなあ?
一寿 ああ、愛子つて云へば、あの節はいろいろどうも……。当人も非常に感謝してるよ。近頃の娘は働くことを自慢にしとるやうだ。レコード会社とは、それにしても陽気でいい。どんなもんだらう。うまく勤まつてるかな。
神谷 大丈夫さ。社長の木崎が馬鹿に力瘤を入れてるから。なかなかシヤキシヤキしてるつていふ話だ。吾輩も、まあこの分ならと思ふんだが、しかし、つらつら将来のことを考へて見ると、そこにまたいろいろな不安がないでもない。女はやつぱり女さ。そこでひとつ、世話のしついでだから、そのシヤキシヤキのお嬢さんを、今のうちに、手早く、玉の輿へ乗つけちまはうといふ相談だが、聴いてくれるかね?
一寿 玉の輿……? おい、おい、これでも氏は正しいんだぞ。
神谷 パルドン。相手は、国こそ違ふが子爵閣下だ。名刺を見せるが、ちやんと、左肩に五つの星の王冠が刷り込んである。おまけに、財産の点では、メエゾン・ペルシエの副支配人と云つただけで、相当の代物だつてことがわかるだらう。
一寿 何処の副支配人?
神谷 ペルシエさ。知らんか。横浜に支店のある……。
一寿 毛唐かね。
神谷 野暮なことを云ふな。レジオン・ドヌウル!
一寿 いちいちレジオン・ドヌウルを云ふなよ。娘を何処で見たんだね。
神谷 ダンスホールかと思つたら、さうぢやない。実は奴さん、日本の流行歌を歌ふんでね。それがなかなか愛嬌があつて面白いもんだから、国華レコードに勧めてみたんだ。先例もないことはないが、味もまるで違ふし、社長、喜んで
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