ぢめつけてゐるものはないと思ふ。なるほど、言葉の秘密といふものについて、誰よりも知り尽してゐる筈である文学者は、また同時に、言葉の反逆を警戒し、その習慣的限界に慊らず、屡々己の欲するイメージをこれに与へようとするのである。
多くの文学者は書きながら考へる。考へながら書くのでさへもない。つまり、書くことが考へることなのである。それは言葉の機能の半ばを無視することになりがちである。
「話すやうに書く」流儀といふのがなくはない。しかし、日本では少くとも、この流儀は実際にその通り行はれたことはない。だから「話す」ことと「書く」こととの間には常に甚だしい距離が存在するのである。
絵かきの文章は、この点で非常に違つてゐることを発見する。彼等は、「言葉」と「言葉以前のもの」とを微妙な感覚で結びつけてゐる。われわれは、彼等の文章を読みながら、ぢかに彼等の考へてゐることにぶつかつて行けるやうな気がする。言葉が絵具のやうに使はれてゐるとでも云はうか。
私の識つてゐる絵かきは、凡そ文学者との話ぐらゐつまらぬものはないと云つた。これは文学の話がつまらぬといふ意味ではもちろんなかつた。文学者の話のしぶりが
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