彼の性に合はぬわけなのである。生憎な次第であるが、私は、これも一見識だと思つた。この絵かきは多分、文学者の「話し方」ばかりについて不満を述べたのではないにきまつてゐるが、私の推量では、やはり、「書くやうなことしか話さぬ」文学者の例の癖に辟易してゐるのであらう。
 それはさうと、日本にも、いろいろな型の文学者がゐる。言葉に対する潔癖と、言葉の健康な使ひ方とを同時にもつてゐる人々を挙げよとあれば、私はたちどころに二人を挙げることができる。志賀直哉、高村光太郎。
 それからもうひとつ、かういふ変つた例がある。「書くやうに話す」といふこと。もちろん、これは、喋ることがそのまま文章みたいだといふことで、これは一つの才能に違ひないけれども、さういふ人の頭の構造を問題とする前に、そこには案外機械的なものが働いてゐると見て差支ない場合がある。一種の言語的関節不随の症状と云へないこともあるまい。
 ともかく、「書く」ことと「話す」こととはまつたく別な作業である。しかし、それは言葉の完全な機能を生かすといふ点で、何れも共通の手段を含んでゐるのであつて、「書かれる」言葉と「話される」言葉とは、それぞれ、言葉
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