ナアルの一文によつて、遂に「日記の秘密」が暴露されるや、巴里文壇の弥次馬は騒ぎたてた。或るものは、細君の処置を適当と認めた。あるものは、赦すべからざる所業なりと論じた。多くは、ルナアルもルナアルだが、細君も細君だといふ見方に傾いた。たゞ出版屋のガリマアル君が、そつと紙屑籠から拾ひだしたといふ「日記の破片」を、多くのルナアル党は早く増補として世に出せと注文した。
 私は「ルナアル日記」の訳者として、実は細君にお礼を云ひたい。あれがもう三倍もあつたとしたら、途中でくたばつてゐたに違ひないからである。(「文芸」昭和十四年七月)
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 私は絵かきの文章に時々感心する。(たまたまある美術雑誌で伊藤廉氏の文章を読んだところである)
 絵かきの文章の面白さは、文学者の文章にはめつたに見られない言葉の独特な駆使にあるのだが、それはたぶん、彼等が、偶然「言葉」といふものをあるがまゝの形で享け容れ、最も自然な機能のなかで捉へてゐるからだと思ふ。
 文学者こそさうでなければならぬと思ふのだけれども、実際は、却つてそれが反対である。日本の今の文学者ぐらゐ「言葉」にこだわり、これを不必要にい
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