主人が、全集を出すために遺稿はないかといふので、細君はそのガリマアル君と一緒にはじめて夫の書斎のあつちこちをひつくり返してみたのである。
 あつた、あつた。おびたゞしいノートの山である。細君は、それが日記だとわかると、恐らく自分で目を通したくなつたのであらう。
 が、いよいよ、その原稿がガリマアル君の手に渡された時は、全体の分量の三分の一しかなかつた。あとの三分の二は、未亡人が読みながら引き裂いて、紙屑籠のなかへほうり込んでしまつたのである。
 ルナアルは、細君をだましてゐた。巴里へかくし女を(いくたりか)こしらへてゐた。その女の本名までいちいち丁寧に記されてゐる。ランデ・ヴウの模様は大胆に描かれてゐる。その「にんじん」的生涯を通じて、凡そ女性との交渉には縁の薄い筈の彼ルナアルは、彼がその日記の他の部分に於いて、あれほど讃美し、傾倒し、感謝してゐた妻のマリネツトを、無惨にも裏切り、しかも、その証拠を貞淑ならびなき彼女の鼻先へ突きつけたのである。その結果は、想像に難くない。
 去年の秋、ルナアル未亡人が落寞たる孤独の余生を終るまで、この事実は友人の間で伏せられてゐた。
 トリスタン・ベル
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