固有の生命を分ち合ふのではない。
 近代の日本語は、さういふ錯覚を起し易いやうに、仕組まれ、発達し、教育された。
 文学者こそ、意識的に、日本語を言葉本来のすがたに引戻すやう努力すべきであらう。
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 国民精神総動員の生活刷新に関する委員会の誕生が新聞に伝へられ、いろいろ問題になつてゐるが、中元歳暮の贈答廃止といふ項目は、それがいはゆる時局の認識から出発するものであるにせよ、これを実際に徹底させるのには容易ならぬ決心がいると思ふ。
 それについて、私自身、少しも異論はない。が、某名流婦人の感想にもあつた通り、盆暮の「進物」が収入の重要部分を占めてゐるやうな職業もあるとのことであるし、一般の場合でも、日本人はこれを「義理」と呼んでゐるところをみると、この義理の始末をどうつけるかといふことが頭痛の種になるであらう。
 元来、形の上から精神の動向を決めて行くといふ方法については、よほど深く考へなければ、この目的は達せられないおそれがある。一つの風習なるものがいつたい何処から発生し、どんな必要からそれが国民の生活のなかに根をおろしたかを、とくとまづ吟味すべきである。
 例へば盆暮の贈答は無駄でもあり、形式的だからこれを廃止した方がいゝと云ふ。民衆の大部分はその通りだと賛成するだらうけれども、お互にやめようといふ話にはついこれまでならなかつたのである。なぜかといふと、日本人は第一に「進物」をもつて「情誼」の表示とする以外に、適当な「心持の伝へ方」を教へられてゐないからである。
 お義理の訪問をする。紋切型の口上と、月並なお世辞でその場をごまかして引きさがる。だから当人もなんとなく物足らぬ。そこで、ちよつと手土産をといふことになる。「つまらんもの」で「志」を汲んでもらひ、お辞儀をおまけにつけておく。これで「義理」が果せるわけである。
 貰ふ方も、何を貰つたかわからずに礼を云ふのが本式なのださうである。兼好のいはゆる「ものくるる友」の類ならまだいゝが、志も志によりけりで、勤め先の同僚にまで食つてもらはねばならぬほどの菓子折をさげて来られ、これでもともとだと思はれては引合はぬ話もあらう。
 まつたくこれはどうかしたいものである。が、どうかするには、まづ進物に代るべき何ものかを用意してかゝらねばなるまい。それは何かと云へば、むづかしいことではない。お互に「言葉」で
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