続言葉言葉言葉(その二)
岸田國士
近頃ある疑ひが私を囚へて放さない。
時代はある行為とある言葉とを奨励し、制限し、これによつて、民衆の趨向を決定しようとしてゐる。ところが、人間はもともと、行為の奴隷でもなく、言葉の傀儡でもないのであつて、その中間に、或は、その二つのものゝ根底に、時としてはこの二つのいづれにも関はりのない「思想」を匿してゐるものである。
この事実は非常に平凡な、誰でも知つてゐる事実であるのに、それを故ら弁へぬやうなやり方が、現在の日本の政治のなかにはある。
もちろん、ひとつの「思想」が行為となり、言葉となる場合もそんなに少くはない。一般には思想の所在がそこにあるやうに考へて差支へない時代もある。ところが、今はさういふ時代ではない。それでいゝのであるけれども、それだけのことは、はつきりさせておく必要があり、寧ろ、さういふところにわが国民の独特な力が発揮されてゐることを世界に誇示すべきである。
文学者は、その行為と言葉とを常に「思想」の上にのみうち樹てる宿命を負うてゐる。時代は彼等の思想を動かすことはあつても、その行為と言葉とを機械的に指向することは不可能だとみていゝ。時にそのことがあつても、彼等はそれをちやんと何処かで告白してゐる。
これは悲しむべきことであらうか。
論議するといふことが日本人らしくないことだといふ風な意見が擡頭しはじめた。
これは、たとへば、飛行機で戦ふのは日本軍らしくない、といふやうな馬鹿げた意見にひとしいものゝやうな気がする。
もちろん、論議にならぬやうな論議の横行にわれわれは少し悩まされすぎた。
そこで、日本人は論議に適せぬ国民なりといふ断定と、日本人は論議は無用だといふ自己過信とが生れて来たのであらう。
論議の真の目的は調和と進歩である、協力と発展である。勝負を争ふといふ形に重きをおくのが、論議の最も原始的な、幼稚な証拠であつて、日本人は相手をへこませるために、一番破壊的な手段、つまり、対手が触れてゐない点へ問題を引き曲げて行く攻撃法をとりたがる。
文芸批評の如きも、作品への挑戦といふ一種の姿勢をとつてゐる場合が多く、さういふものもたまにはあつていゝけれども、誰でもついさうなるといふところに、所謂日本の文壇的気流の変質的な暗さがあるのだと思ふ。
横光利一氏も何時か私に「日本人の批評といふやつはどう
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