ぢめつけてゐるものはないと思ふ。なるほど、言葉の秘密といふものについて、誰よりも知り尽してゐる筈である文学者は、また同時に、言葉の反逆を警戒し、その習慣的限界に慊らず、屡々己の欲するイメージをこれに与へようとするのである。
 多くの文学者は書きながら考へる。考へながら書くのでさへもない。つまり、書くことが考へることなのである。それは言葉の機能の半ばを無視することになりがちである。
「話すやうに書く」流儀といふのがなくはない。しかし、日本では少くとも、この流儀は実際にその通り行はれたことはない。だから「話す」ことと「書く」こととの間には常に甚だしい距離が存在するのである。
 絵かきの文章は、この点で非常に違つてゐることを発見する。彼等は、「言葉」と「言葉以前のもの」とを微妙な感覚で結びつけてゐる。われわれは、彼等の文章を読みながら、ぢかに彼等の考へてゐることにぶつかつて行けるやうな気がする。言葉が絵具のやうに使はれてゐるとでも云はうか。
 私の識つてゐる絵かきは、凡そ文学者との話ぐらゐつまらぬものはないと云つた。これは文学の話がつまらぬといふ意味ではもちろんなかつた。文学者の話のしぶりが彼の性に合はぬわけなのである。生憎な次第であるが、私は、これも一見識だと思つた。この絵かきは多分、文学者の「話し方」ばかりについて不満を述べたのではないにきまつてゐるが、私の推量では、やはり、「書くやうなことしか話さぬ」文学者の例の癖に辟易してゐるのであらう。
 それはさうと、日本にも、いろいろな型の文学者がゐる。言葉に対する潔癖と、言葉の健康な使ひ方とを同時にもつてゐる人々を挙げよとあれば、私はたちどころに二人を挙げることができる。志賀直哉、高村光太郎。
 それからもうひとつ、かういふ変つた例がある。「書くやうに話す」といふこと。もちろん、これは、喋ることがそのまま文章みたいだといふことで、これは一つの才能に違ひないけれども、さういふ人の頭の構造を問題とする前に、そこには案外機械的なものが働いてゐると見て差支ない場合がある。一種の言語的関節不随の症状と云へないこともあるまい。
 ともかく、「書く」ことと「話す」こととはまつたく別な作業である。しかし、それは言葉の完全な機能を生かすといふ点で、何れも共通の手段を含んでゐるのであつて、「書かれる」言葉と「話される」言葉とは、それぞれ、言葉
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