われながら浅間しくも思はれる。それだけでも、作者自身溜飲はさがらぬのである。
阿部君も芹沢君も云はれるやうに、文学者同士が、お互に、世間へ背を向けて、気のきいた皮肉を楽しんでゐるなら別だが、そんな悠長な?文学が今時、生れる余裕があるかどうか。諷刺の槍玉にあがつてゐるその当人は、痛くも痒くもないといふのでは、なんにもならず、万一、辛辣に過ぎるやうなことがあれば、忽ち、物騒な目に遭ふ前に、原稿は活字にならぬといふ不便が控えてゐる。
このヂレンマをどう切り抜けるか。そこは腕ひとつなどといい気になってゐる[#「なってゐる」はママ]と、逃げながら悪態をつくやうな、盲人に赤んべえをしてみせるやうな醜態を演ずることになる。諷刺は、転じて、卑怯未練となり、何も云はずに黙つてゐる方が、よほど立派といふことになるのである。
しかし、私個人としては、必ずしも、何々主義の旗を振り翳して、何々主義に刃向はうとは考へてをらぬ。ここのところ、徳永直氏のもう一歩踏み込んだ批評を伺ひたいと思ふが、私は、日本人として、日本民族の運命といふことだけが、今は問題なのである。世界の文化過程がどうであらうと、近代資本主義の
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング