家諸君が云はれるやうな意味があるとすれば、それは、私の手柄にはならないばかりでなく、誰もが、馬鹿々々しくて云へずにゐたことを、私が熱に浮かされて口走つただけのことであり、それがたまたま、誰かが云つてもいいことだつたといふ、甚だ照れ臭い結果を生んだのである。
かういふ種類の、卑下とも謙遜とも取れる云ひ方は、聴きやうによつては気障かもしれぬ。それを承知の上で、私は、云はねば気がすまぬのである。なぜなら、これは飽くまでも、文学以前の、或は文学以上の問題(阿部知二君のお説通り)だからである。即ち、作家の気質又は才能に拘る問題ではないのである。
私は、偶然、この「もやもやした考へ」に一つの表現を与へる意義について、教へられたわけであるが、諷刺といふ形式の困難は、十分弁へてゐるつもりである。
時代を隔てると、それほどにも感じられまいが、同時代のものの眼に、諷刺文学の惨めさは、いかに映るであらうかといふことを、私は第一に考へる。痛烈に、颯爽と、かのモリエエルやゴオゴリの如く、相手撰ばず喉笛を締めることができたら、文句はないのであるが、片肱をあげて、及び腰で遠くから瘠犬の如く吠え立てる恰好は、
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