」自体をまでその機能に合致させようとする応用派に属するものである。
私一個の見解をもつてすれば、ある新聞の小説と、同紙面との調和不調和といふことはこゝで相当重要な問題になつて来ると思ふ。作者の撰択が常にいくぶんこの標準で行はれてゐるものと判断はできるけれども、作者の側からすれば、それも亦一の制約であり、時には拘束でさへもある。
読者はたゞ、今日の分は面白いとか面白くないとかいつて読んでゐればいゝのだが、新聞社の当事者は、検閲などといふことゝは別に、毎日の一回分をはらはらしながら眼を通してゐることだらうと思ふ。それと同様に、作者の立場からは、実を云ふと、自分の書いてゐる間は少くとも、毎日の新聞記事が自分の責任みたいに気になつてしかたがないのである。をかしなものである。
新聞社が作者に対し、いろんな注文を出すといふ風説が行はれてゐる。これは、私の知る限り、まつたくの嘘ではないが、文字通りの真相でもない。作品そのものゝ価値に影響するやうな注文を、黙つて聴く作者もあるまいが、要するに、新聞小説の条件に関する一般的要求がそこに現はれて来るのは当然で、この条件は、作者自身と新聞社当局とが、そ
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング