傍点]、またどんな読み方[#「どんな読み方」に傍点]で、これらの小説を読むのが普通であるかといふ点である。
 以上の二点から「新聞小説」の条件或は制約といふものが生れて来るとみなければならない。
 読者層が階級的にも地方的にも極めて広いといふやうなことを第一の条件とする説もあるやうだが、私は、この説をあんまり信用しない。広いには広いに違ひないけれども、これはもう、厳密には一人の作者にとつてはどうにもならないことで、せいぜい「調子をさげる」などといふ馬鹿な手が考へられるくらゐなものである。
 さて、新聞がなぜ小説などを細かく切つて載せなければならぬかといふ点であるが、この解答は新聞社側にお願ひしたいものである。私はただ想像にすぎぬが、西洋諸国にも例がある通り、これは単に、あまりに現実的な日々の事件の相貌に一脈の空想味を盛り、あまりに険しい活字面の公式的俯瞰のなかに、いくばくのフアミリアルなスタイルを与へようとする意図の現れではないかと思ふ。
 文学とジヤアナリズムとの結びつき方に二様ありとすれば、これは正しくその一つで、作家がその「生活」をのみジヤアナリズムに託する純粋派に対して、「作品
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