てゐる気か。
二葉  あたしが死なゝいつて云へば、お父さんだつて死にたくないとお思ひになるわよ。ねえ、さうでせう(父に取り縋り)それがほんとだわ。あたしをほうつて、そんなことなされない筈よ。あたしのことが心配でせう。(急き込んで)ねえ、心配だつて云つて頂戴……。あたし、まだ、お父さんに、いろんなことで力になつていたゞきたいのよ。ほんとよ。さういふ力なら、お父さんにあつてよ。あるどころぢやないわ。お父さんにしかない力よ、それは……。それも、大きな、大きな、強い強い力よ。
州太  駄目だよ、お前がなんと云つたつて……。仕方がない……。お前がいやなら、わしは、一人で、飛び込む……。
二葉  (はじめて気がついたやうに、恐怖に満ちた眼で噴火口の方をみる)
州太  お前を誘つたのは、わしがわるかつた。お前には、まだ、お父さんの苦しみも、よくわかるまい、それだけに、まだ、世の中といふものが、わかつてゐないのだ。一人の人間の命を、わしは決して軽く見てゐるわけではなかつた。殊に、お前にとつて尊いものを、わしが奪ふといふ法はない。わしは、わし自身の選んだ道を取ることにしよう。そこで、くれぐれもお前に云つておくが、山を降りたら、まつすぐに東京へ帰りなさい。決して、あのおとねのゐる家へ足を向けるんぢやないよ。あの女は、お前を、どんな方向へ引つ張つて行くかもしれない。あの女の言ふことは、取るにも足らないほど馬鹿げたことだ。しかし、あの女のすることは恐ろしいよ。恐ろしいといふ意味は、相手にきつと、心の動揺、つまり、何等かの影響を与へるといふ意味だ。あの女の何処かに、見どころがあるとすれば、わしにだけさう見えるのかもしれんが、そいつはつまり、不純なものゝ美しさだ。わしは、どういふわけか、さういふところにだけ心を惹かれたのだ。だが、お前は、お前こそ少くとも、純潔を保つてゐて貰ひたい。お前の過去は、二つ傷をもつてはゐるが、決して、それは汚れたものではない。その点、わしは、お前を信じ、また、お前のために矜りを感じてゐる。初めの男は、たゞ、お前を裏切つたのだ。二番目の男には、これは、お前といふ女がわからなかつた。何れも、お前に罪はなく、お前は、お前の心のやうに清浄無垢だ。
二葉  …………。
州太  たゞ、わしが、どうにも気がゝりなのは、お前が、その総てを、どんな男の手に委ねるかといふことだ。その男が、果して、お前の総てを、わしと同じ眼で見てくれるかといふことだ。
二葉  (訝しげに父の顔を見守る)
州太  こんなことを云つてゐても仕方がない。お前は、お父さんにかまはず、これから、来た道を下へ降りるといゝ。迷ふ気づかひはない。それとも、やつぱり、日の出を見てからにするか。もう、そろそろ、夜が明けて来た。
二葉  かうして、お父さんのお話を聴いてゐると、今、眼の前に起らうとしてゐることが、なんだか、自分とは関係のないことみたいな気がしますわ。そんな筈はないのに、どうしてゞせう。やつぱり、そんなことは起らないにきまつてるからだわ。さうよ。さ、もう、あたし、なんにも見なくつていゝから、すぐに引つ返しませう(父の腕を取り、無理に起たせようとする)ようつたら……。こんなところに、何時までもゐちやいけないわ。
州太  (やつと起ち上り)さ、お前は、此処にゐない方がいゝ。それぢや、二葉、気をつけて帰りなさいよ。(噴火口の方に近づいて行く)
二葉  (驚いて)お父さん……何処へいらつしやるの。(追ひ縋り、その腕を捉へて)いけません。止して、ね、止して……後生だから止して……。あゝ、誰か来て頂戴……。
州太  二葉……。(哀願するやうに)どうか、お父さんのすることを赦してくれ。こんな意気地のない父親は、天下に二人とはゐまい。だが、いくら蔑まれても、憎まれても、わしは、どうすることもできんのだ。(殆ど狂はんばかりに)あゝ、誰か、今、わしを殺してくれるものはないか……。
二葉  お父さん……。そんなに生きてゐるのが苦しいの? あたしが……。あたしがゐるつていふことが、なんにもならないほど苦しいの? それぢや、いゝわ、あたし、一緒に死んであげるわ……。
州太  え? ほんとか?
二葉  ほんとよ。えゝ。あたし、決心してよ。どうしたつていふんでせう……。自分でもわからないの。死ぬなんて、いやだと思つてたのが可笑しいくらゐだわ。もう、なんともないわ。たゞ、怖いだけよ。怖いわ、死ぬの……。でも、お父さんと一緒なら、怖くないか知ら……。あそこまで行つてみませうよ。(歩き出す)
州太  怖くはない、怖いもんか。さ、しつかりお父さんにつかまつておいで……。あの崖の端まで行つたら眼をつぶりなさい。
二葉  あたし、今から眼をつぶつてゝよ。あら、よく歩けないわ。(間)まだなかなかね……。
州太  まだ
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