浅間山
岸田國士

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小舎《カツテージ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
−−

[#ここから4字下げ]
浅間山の麓

[#ここから5字下げ]
萱の密生した広漠たる原野の中に、白樺、落葉松などの疎林が点在し、土地を区劃するための道路が、焼石の地肌をみせて縦横に延びてゐる。
緩やかな斜面に沿つて、粗末な小舎《カツテージ》が一棟。斜面の尽きるあたりに、水量の乏しい渓流。温泉鑿掘のための櫓《やぐら》が、その岸に立つてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

[#ここから3字下げ]
この物語の中に現れる人物

[#ここから5字下げ]
丹羽州太
同 二葉   その娘
時田思文   郵便局長
同 則子   その娘
小瀬川とね  州太の同棲してゐる女
新井 務   州太の助手
菰原献作   人夫頭
青木利元   二葉の婚約者
郵便配達夫
その他人夫大勢
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

     一

[#ここから5字下げ]
五月の末――昼すぎ。
小舎《カツテージ》の入口。
正面のテラスに、籐椅子が一脚出してあり、窓越しに事務所風の部屋の内部が見える。
郵便局長時田思文(五十三)が自転車を押しながら現れる。テラスに上り、窓から部屋の中をのぞきこむ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
時田  なんだ、だあれもゐないのか。(入口の戸を開け)おとねさん、みんな留守かい。(返事がないので、一つ時躊躇してゐるが、やがて、テラスの上を歩きまはる。急に女の声色を真似て)おや、お珍しい。昨夜《ゆふべ》もあんたのお噂をしてたところですよ。(椅子にかけ、調子を変へ)わしの噂をかね。(苦りきつて)ちえツ! それがお世辞かい。(窓の中に、さも誰かゐて、それに話しかけるやうに)時に、大将、温泉の方はどうです。ちつとは、熱い湯が出ますかい。出る。よろしい。わしも、五百坪ばかり、土地を分けといて貰はうかな。坪弐円として、十円づゝの月賦ならよからう。

[#ここから5字下げ]
入口の窓が開く。小瀬川とね(三十二)が顔を出す。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
とね  おや、お珍しい。何時いらしつたの。
時田  わしが来る時は、みんなどつかへ隠れてるのかね。
とね  あんた、お一人……? 変だね。今、話声が聞えたと思つたけれど、耳のせいか知ら……。こゝへ来てから、よくそんなことがあるんですよ。静かすぎるからでせうね。
時田  静かすぎる、それやほんとだ。山鳩の声にでも返事をするつていふのがこの土地の笑ひ話だ。お前さんも、よく辛棒をするぢやないか。
とね  決心ひとつですね。まあ、中へはひつて一服お喫ひなさいまし。
時田  今日はまた忙しいだらう。二葉さんは、やつぱり二時の下りかね。
とね  よく御存じですね。
時田  郵便局をやつとつて、そんなことがわからんでどうする。おい、変な顔色するもんぢやない。中は見ないだつて、手紙の来かたでわかるよ。からだの具合でも悪いのかな。
とね  さあ、どうですか。
時田  かう云つちやなんだが、お前さんからすれや、ちつと具合が悪いな。娘さんの手前、万事、今迄通りつていふわけにも行くまい。大将はどうするつもりか知ら……。
とね  あたしや、どうだつていゝんですよ。ゐてわるけれや、帰るとこぐらゐあるんですから……。
時田  それやさうさ。待つてる人だつてあらうさ。小諸のおとねさんつて云や、わしや、子供の時から名前を聞かされてゐたよ。
とね  (笑つて)さうですか。(しんみり)今の若い人には、丸つきり、かういふ苦労はわからないでせうからね。(間)旦那は、この間うちから、二葉二葉つて、それや大変なんですよ。(間)その娘さんつていふ人が、家《うち》ん中をやつてくれさへすれや、あたしは、まあ、用のないからだですもの。
時田  (わざと素気なく)そこんところは、わしどもにやわからん。
とね  なんか急ぎの御用ぢやないんですか。
時田  ゐどころはわかつてるのかい。
とね  川下に、また新しく湯の出るところがみつかつたらしいんですよ。今日は、そこでせうと思ひます。
時田  今掘つてるところは駄目かね。
とね  その日その日で、わからないんですよ。雲をつかむやうな話ですわ。
時田  この夏までにや、なんとかしたいもんだがなあ。
とね  二葉さんつていふのは、随分、しつかりした娘さんらしいですね。
時田  らしいね。
とね  写真でみると器量もいゝし……。
時田  うちの娘も会ひたがつてるつて、さう云つておくれよ。なにしろ、こんなところで、友達はな
次へ
全19ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング