なかなかだ……。ちつとも苦しくはないよ。煙にさつと包まれたら、それでもういゝんだ。からだが、ふはりと、宙に浮くだけだ……。
二葉 もうぢきでせう……。あゝ、あたし、いゝ気持だわ……なんだか、楽しみだわ……どんなところへ行くんでせう……。
州太 ……。
二葉 ねえ、返事をして頂戴よ。黙つてちやいやだわ……一人ぽつちみたいで……。
州太 (声が出ない。もう断崖の頂に来てゐる)
二葉 どうしたの、え、お父さん……どうして停つてるの……。震へちや駄目よ……。
州太 顫えてなんかゐないさ。わしも歩きにくいだけだ。
二葉 硫黄の臭ひね。息がつまりさうだわ。
州太 (決然と)さ、いゝか……。そらツ……(グイと、娘の背を抱へた腕に力をいれ、共々、前に躍り出ようとする)
二葉 (この瞬間、ぱつと眼を見開くと同時に、狂ほしく)ちよつと、待つて……(かう叫んで、側らの岩にしがみつく)
州太 (娘の手を握つたまゝ、励ますやうに)どうした!
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長い、息づまるやうな沈黙。
やがて二葉は、岩から、ぢりぢりとからだを離し、こんどは、父の手を振り放すやうに、自分で、噴火口めがけて飛び込まうとする。
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州太 (無意識に彼女の肩に手をかけ、鋭く)おい、待てツ!
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が、二葉の足は、もう地上を離れてゐる。州太は、彼女の肩に手をかけたまゝこれも、引摺られるやうに崖へ姿を消す。
地平線上の空は、次第に明色を帯び、やがて、高山より見下ろす独特の曙光を反射しつゝ、山頂は、今や、黄褐色の地肌を生々しく現しはじめる。
その時、崖の一端に突き出た熔岩の鉛色の蔭から、二葉の姿が――それは恰も、「自然の意志」が彼女を起らせたかのやうに――ほのぼのと浮び上つて来る。
彼女は、半ば眠つてゐるものゝ如く、ぐつたりと、からだを岩にもたせかけるが、そこで、極めて徐々に両眼を見開く。
それと同時に、遥か向うで、今頂上に辿りつかうとする登山者の一隊が、所謂「御来光」の壮観を前に、高々と、何やらの歌を合唱しはじめる。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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