気をしたことは滅多にないが、なにか面倒な事件が起ると、すぐに、自分の命といふことを考へる。しかし、わしにも、お前といふ娘がゐなかつたら、もう、とつくの昔……さういふ事件のために、命を取られてゐたのだ。昨日の、あの人夫どもの事件にしてもさうだ。あの時こそ、わしは、どうにでもなれと思つた。お前が貯金を投げ出してくれなかつたら、わしはあいつらの面へ、インキ壺を叩きつけてやるところだつた。
二葉  そんなことつてないわ。今、賃金の問題は何処でもやかましいんだから……。
州太  しかし、お前があゝいふことをしなくつても、あの時は、我慢をしたかも知れんよ。お前のところへ大事なお客さんが来てゐる時だ。
二葉  あたしたち、話がすんで、どつちも黙つてゐたのよ。さうしたら、表の方で急に、大きな声が聞えるでせう。あたし、そうつとのぞきに行つてみたの。すると、あゝいふわけなんですもの。びつくりしたわ。だつて、お父さんのお話と、丸で様子が違ふし……。
州太  わしも、実際、お前には面目ない。満更、嘘をついてゐたわけでもないのだが、事実よりも空想の方が話しいゝ場合もある。お前だつてさうだらう。例へば、あの青木といふ男が、昨日、わざわざやつて来た理由は、わしに黙つてるぢやないか。
二葉  ……。
州太  しかし、さういふことは、何れわかることだ。はつきり云つてしまはうぢやないか。実は、あのおとねが、お前たちの話を、すつかり立ち聴きしてしまつたのだ。
二葉  ……。
州太  それで、どういふんだ、あの男は……。
二葉  駅へ行く途中、さういふお話、なすつたんでせう。
州太  それも、聞くには聞いた。お前は、わしの耳に当分入れないといふ約束をしたさうだが、あの男は、すつかり喋つたよ。
二葉  そんなら、もう、いゝぢやないの。
州太  どうしてまた、以前のことを打ち明けて置かなかつたんだ。今更それを云つてもなんにもならんが……。
二葉  云はう云はうと思つてるうちに、云へなくなつちやつたの。だつて、あんなこと、云へば赦してくれるにきまつてると思つてたし、それくらゐなら、急いで云ふ必要なんかないんですもの。
州太  何処からそんなことがわかつたんだ。
二葉  調べたらわかつたつていふのよ。下宿のお神さんでせう。今度、あそこを引払ふ時でも、それや機嫌が悪いの。さういふお神さんよ。一度か、二度、遊びに来た
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