するから、するつて云つたゞけよ。それ以上、別に、なんでもないのよ。
新井  益々わからん、僕にや……。それで、あんたは、先生が死んで、なんともないんですか。さうして、ぢつとしてゐられるんですか。
とね  だから、どうにもしようがないつて、云つてるんぢやないの。わからない人ね。
新井  悲しくも、怖ろしくもないんですか。
とね  そんなこと、あんたが聞いてどうすんの。あたしがどう思つたつて、勝手ぢやないの。
新井  まあ、騙されたと思つて行つてみよう。僕は、心配な時は、心配な顔しかできない人間なんだ。笑はれたつて、かまやしない。(向うへ行きかける)
とね  誰も笑つてやしないわよ。お待ちなさいつたら、ちよつと……。
新井  ……。
とね  今の話は、みんな出鱈目よ。だつて、死にゝ行く人間が、明日の朝、峯の茶屋まで自動車を迎ひに寄越せつていふわけはないでせう。
新井  全くですね。
とね  それから、二葉さんは、二三日うちに、また東京へ出ることになつてるのよ。
新井  ほんとですか。
とね  がつかりしたでせう。
新井  よして下さい、さういふ変な話は……。
とね  あたしも、ことによると、小諸へ帰るわ。
新井  そいつも、嘘らしいな。
とね  見てればわかるわ。また芸者になるのよ。
新井  先生と別れてかね。
とね  むろんよ。さうしたら、あんた、遊びに来てくれるわね。
新井  どういふもんかな、そいつは……。
とね  どうもかうもないさ。さうなれや、あたしは、誰のもんでもないんだから……。
新井  第一、そんな余裕はないですよ。月二十円の小遣を貰つてるんぢや……。
とね  そこは、あたしがうまくやつたげるわよ。知らない仲ぢやなし、安心してらつしやいよ。
新井  だけど、その話は、まだ早いや……。
とね  夜露がひどいから、家ん中へはひりませうよ……。
新井  ほんとに、大丈夫なんだらうな、先生たちは……。
とね  まだ、そんなこと考へてんの。御覧よ、今頃は、二人で、六里ヶ原の月でも見ながら、いゝ気持で歌を唱つてるから……。(さういひながら、奥に姿を消す)

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新井は、一つ時、思案に暮れて外に立つてゐるが、遂に、ふらふらと中へはひつて行く。
舞台しばらく空虚。
そのうちに、部屋の奥で、穏かであるが、何か云ひ争ふ声が聞え、やがて、新井が、扉を開けて
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