面倒な気持はない。こんなことを、お前が知つたつてなんにもならんが、世間には、さういふ例がいくらもある。わしも、この年で、しかも、お前の眼の前で、こんな生活を続けたくはないんだが、今更どうも、致し方がない。お前に不愉快な思ひをさせてすまんが、こゝはひとつ、大目にみてくれ。
二葉 あたしに、そんな気兼ねをなさらなくつていゝことよ。人間は、何時だつて自分に克てないことがありますわ。
州太 それがわかつてくれゝばありがたい。だから、お前は、飽くまでもこの家の女主人だ。誰にでも遠慮なく振舞ふがいゝ。
二葉 あの方にも、さう云つておあげになるといゝわ。あたしと、あの方と、どんな風に遠慮なく振舞ひ合ふか、お父さん、見てらつしやいね。女同志は、世間でいふほどうるさいもんぢやなくつてよ。
州太 お前にはかなはんよ。まあ、よろしくやつてくれ。もうぼつぼつ飯の支度ができてる時分だ。あつちへ行かないかい。(歩き出す)
二葉 もう少しかうしてたいの、あたし……。浅間がいゝ色ね、今朝は……。
州太 そのうちに、一度、登つてみるか。
二葉 賛成ね。その用意に、靴も持つて来てるのよ。
[#ここから5字下げ]
州太の姿が消える。
二葉は、そのまゝそこに腰をおろしてしまふ。今迄の晴れやかな瞳に、なんとなく憂鬱な色が浮ぶ。
鶯が啼いてゐる。
葱を入れた笊を持つて、とねが降りて来る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
二葉 早くお起ししてすみません。
とね とんでもない。今朝は、どうしてだか寝坊をしちまつて……。何時も、今頃は、とつくに朝御飯がすんでるんですよ。
二葉 (皮肉でなく)それぢや、お寝坊をさしてすみません。
とね (笑ひながら)あらまあ、こんだ、どう云つたらいゝんでせう。こゝは、水が不自由でしてね。(葱を洗ひはじめる)一日に何度も、下へ降りて来なくつちやならないことがあるんですよ。早く水道が引けるといゝんですけどね。
二葉 明日から、お勝手のお手伝ひをしますわ。今日一日、休暇を頂戴ね。
とね 休暇……? あゝ、お休みですか。えゝえゝ、いくらでもあげますとも……。今迄、水仕事なんかなすつたことはないんでせう。
二葉 どういたしまして……。父と二人つきりの時は、なんでもやりましたわ。胡瓜もみ[#「もみ」に傍点]なんかさせて御覧な
前へ
次へ
全38ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング