さないだけだ。
二葉  ほんとによかつたわね。かういふことが、何時かなくつちや嘘だわ。あたし、自分だけが幸福なんぢやないかと思つて、こゝへ来るまで、随分気が気ぢやなかつたのよ。こんな淋しい山の奥で、お父さんが汗だらけになつて働いてらつしやるんだと思ふと、それだけで涙が出さうだつたわ。しばらくでもお側にゐて、できるだけお手伝したり、元気をつけてあげたりしようと思つて来たの。
州太  それや無論、お前が側にゐてくれゝば、お父さんも元気が出るさ。
二葉  でも、あたし、ほんたうは、そんな孝行娘の真似なんかしなくつてすめば、その方がありがたいわ。自分だけで、空想を楽しんだり、お父さんを少し怒らしたりする方が好きなんですもの。
州太  お父さんは怒らないよ。
二葉  なにをしても……?
州太  うん。
二葉  なにを云つても……?
州太  うん。
二葉  珍しいお父さんね。
州太  何か云ひたいことがあるんだらう。
二葉  それや、おほありよ。
州太  云つて御覧。(娘の側に近寄り、その顔を見下ろす)
二葉  (無意識に立ち上り、父の視線を避けるやうにして)あのね……あの女の方、どういふ方……?
州太  おとねつていふ女か。(間)お前はなんだと思ふ?
二葉  あたしに云はせるの? ずるいわ……。
州太  おほかた察しがつくだらう。わしは、お前に、なんにも隠さない。(間)その通りだ。
二葉  結婚なさるおつもり?
州太  はじめは、そんなつもりぢやなかつた。今でも、そんなことは考へてない。しかし、お前が勧めるなら、結婚してもいゝ。

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長い間。
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二葉  それだけのことがわかれば、もういゝのよ。
州太  それだけのことが、どうして知りたかつたんだ?
二葉  さうね、好奇心よ、きつと。
州太  好奇心……? そんな風に誤魔化さなくつてもいゝ。わしは、お前の前で告白をするが、あの女とわしとの関係は、お前たちが想像もつかないやうな、俗つぽい、だらしのない関係だ。あれは小諸で芸者をしてゐた女だ。いろいろ苦労をした揚句、商売を止めたいといふから、わしも今、独り身ではあり、引取つて世話をすることにしたんだ。向うも、男なら、わしと限つたわけでもあるまいし、こつちでも、あれでなけれやならんといふほど、
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