前といふきまつた女を手に入れたわけだ。
とね 手に入れたはひどいでせう。
州太 手に入れたはひどいか。そんなら取消さう。
とね 取消さなくつてもいゝわよ。
州太 ぢや、どうしよう。
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州太は晴れやかに笑ひながら、テラスに姿を現す。山鳩がしきりに鳴く。
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とね (突然、前の方を指さし)あれ、さうでせう。
州太 ほう。自転車の護衛がついてるぜ。
とね お姫様のお成りですもの。
州太 荷馬車の上でパラソルは洒落てるね。(間)
とね 献さんが大真面目で馬をぶつてるわ。(間)
州太 笑つてやがる。
とね なんとか合図をしておあげなさいよ。(間)
州太 (聞えないふりをして)なんだ、あの黒い四角な箱は……。(間)
とね 丈が随分高いわね。ちよつと、断髪か知ら……。
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遠くで、「たゞいまあ」といふ快活な女の声。州太は、機械的に走り出ようとするが、思ひ直して、そこに踏み止る。立つても坐つてもゐられないやうな気持を、強ひて抑へてゐる様子がありありと見える。
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二
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翌朝。
谿流に莅んだ温泉鑿掘の現場。――櫓、番小屋。
酒樽を水槽とし、その中に筧の水が落ち込んでゐる。
洗面所、洗濯場などの簡単な設備。
斜面の稜線から浅間の頂がのぞいてゐる。
新井務が顔を洗ひ終つて、その場を立去らうとすると、州太が、歯を磨きながらどてら姿で現れる。無言の会釈。
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州太 (呼びとめて)おい、飯を食つたら、駅へ行つて、畳屋へ電話をかけてみてくれ。それから、序に、牛肉を二斤ばかり頼んで来い。
新井 承知しました。僕は、なんなら、番小屋へ寝てもいゝんですが…………。
州太 (口をすゝぎ)部屋はあるんだから、かまはないさ。
新井 あれはどうしませう、印刷屋の方は…………。今日中に区劃割の地図だけでも刷《す》つとく方がいゝと思ふんですが……。
州太 あゝ、その方も急いでくれ。お前もちつと忙しすぎるな。(顔を洗ひながら)そのうちに、現場の方は、人を一人いれよう。
新井 それより……(声を落とし)今、こんなこと云つちやなんですけれど、
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