し、われわれの魂は剛毅なる祖先の血を継ぎ、われわれの歴史と国土とは、知らず識らず日本の子供たちに、「尚武」の趣味を注ぎ込んでゐます。
 敢為敢闘の意気、体力の強化、武技の錬磨を含んだ「武」の倫理は、かの「武士道」を生んだ日本文化の一大要素であることを想起し、軍事活動を意味する「武力」と並んで、国民の総力と称せられる各分野の生産と秩序と持久との日常生活体制に於て、あくまでも「武」の精神を発揚することこそ、明日の勝利と建設への根本的着眼であると信じます。
「武士道」が昨日の日本を築いたとすれば、軍人に賜りたる勅諭の御精神は、現代の「武士道」とも云ふべき軍国最高の倫理に外ならぬと察せられます。
 忠節、武勇、礼儀、信義、質素の五ヶ条と、これを貫くに「誠」をもつてせよとお説きになつたものでありますが、これはもはや、軍人に限らず、全国民ひとしく、この御趣旨を奉体して誤りなきものと私は信じます。
 日本の今日あるは、畏くも明治大帝が夙に明らかに軍人の向ふところをかくの如く指し示され、軍人はまた、陛下の股肱として、絶大の矜持と志とをもつて、その軍隊の錬成に励んだからであります。
 これをもつてみても、古来、「武」の道は、決して、一切の道徳と無関係なものではなく、そのうちで特に武勇なる一特性は挙げられるにせよ、なほかつ、武勇だけでは「武」の倫理は完からず、忠節以下、礼儀、信義、質素の徳目を併せ備へなければならないのであります。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 そこで、次に、この時局下に於て、いはゆる「決戦の連続」と云はれる息づまるやうな昨今の情勢に鑑み、なほかつ、私が国民全体、特に青年に求めたいのは、正しい意味における「生活のうるほひ」であります。

「生活のうるほひ」は、「武」の精神と牴触するものではなく、むしろ、「武」をして真の「武」たらしめるあらゆる倫理を含むものであります。即ち、軍人に賜りたる勅諭にもお示しになつた、礼儀と信義と質素とは、そして、特に「誠」こそは、「生活」をして「うるほひ」あらしめる根本の要素であります。
 しかし、これを、一般国民の日常生活の現れ、乃至は心構へとしてみるとき、また別の角度から、その理想のすがたが考へられるのでありまして、「うるほひ」といふ言葉もまたそこから生れるのであります。
「うるほひ」は、「ひからび」の反対です。
 土地にしろ、草木にしろ、生物にしろ、乾《ひ》からびるといふことは、養分がなくなることで、機能の衰退、死滅を意味します。
 人間の日常生活に於て、身体の栄養以外に、心の栄養といふものが考へられます。空気や水に匹敵するものもあれば、調味された食物に比ぶべきものもあります。そして、栄養は、これを外から吸収消化するために、身体にそれぞれの機関が備はつてゐる如く、精神も亦、外部の栄養を摂取し、これを精神的血肉とするために、必要な機能を備へてゐなければなりません。
 この外部から受け容れる栄養の豊かさと、内部に於ける働きの円滑な状態を指して、「生活のうるほひ」と呼ぶのであります。
 従つて、「生活のうるほひ」は、あくまでも精神の問題であつて、決して物質の乏しさに脅かされるものではありません。むしろ、物質的なものを極度に節約して、精神的なもので生活を満たすことこそ、生活の真の「うるほひ」と云へるのです。
 戦時生活の、いはゆる「物資欠乏」を伴ふことは、われわれの既に経験しつゝあるところであります。ところが、その「物資欠乏」が、われわれの精神に及ぼす影響は、戦時生活の他の面、即ち、戦場の消息とか、敵機の襲来とか、国際情勢の変化とか、政界の空気をはじめとする政治の動向とかいふもの、更に、家庭を中心とした四囲の人事的な動き、市井の物情などから受ける衝撃や感動や不安といふやうなものに比べて、現在では、殆ど同じくらゐになつてゐるやうに思はれます。むしろ、私の観るところでは、「物資の欠乏」といふことが、現在の国民生活を、もつと別の形で左右すべきだと考へるのです。それは、幸ひにして、「物資の欠乏」の程度が、他の交戦国からみれば、まだまだ余裕がある方なのですから、それを今のうちに、「何時までも持ちこたへられる」かたちにする計画と、その実践がなによりも必要なのであります。それに払ふ努力をいくぶん等閑に附して、たゞ物資不足を歎いたり、それに不安を感じたり、そのために気持が荒んだりするといふことは、まつたく日本人らしからぬことであります。
 しかしながら、戦時生活のあらゆる条件は、人心に必然的な動揺を与へ、生活の色調も亦、これに応じて、いくぶんの変化を示します。この変化が、「生活の悪化」となり、単に物質的な面ばかりでなく、精神的にも、「生活力の涸渇」となるやうに、敵はあらゆる術策をめぐらしつゝあるのです。
 国家総力戦とは、明らかに、国民の「生活」をもつてする戦ひ、「生活戦」をも含むものであります。それは結局、「生活力の強化」を以てこれに当らなければなりません。「生活力の強化」とは、言ひ換へれば、必要な物資の最少限度までを確保するための工夫努力と、その目的を達するため、及び、物資の欠乏に堪へ、しかも、それと関係なく「生活」を豊かならしめる精神力の培養と発揮とを、国民全体がひとしく心掛けることでなければなりません。
「戦時生活」に於ける「生活のうるほひ」は、正に、戦時であればこそ、一層その必要が痛感されるのだといふことを、こゝで断言しておきます。
「うるほひ」といふ言葉が、なにか弱々しい響きをもつやうに聞えるかも知れませんが、それは言葉の深い意味を解しないからであつて、機械や革具でさへも油が必要なことを思へば、「生活」に「うるほひ」を与へることは、決して、質実剛健と相反するものでないことがわかる筈であります。
 さて、「生活のうるほひ」は、先づ、「心のゆとり」といふものを根本の要素とします。
 緊張のなかにおのづから沈著と冷静を保ち、無益の疲労を避け、常に秩序ある生活を営むことです。情熱を傾けることと、興奮することとは別であることを知り、人との接触に於ても猥りに感情に走るやうな言動を慎み、すべての浪費を蓄積に代へることであります。
「心のゆとり」は、決して、「暢気《のんき》」といふことではありません。余裕綽々といふ状態を云ふのです。この心境に達するのは容易なことではなく、そして、それがためには、第一に、大きな「智慧」を必要としますが、この「智慧」の大小に拘らず、これをいつぱいに働かすといふことの努力は、差しあたり、誰にでもできることでありまして、青年は青年なりに、日本人特有のこの「智慧」を、青年らしく活溌に働かせてほしいものです。
 早く勉強なり仕事なりを片づけて遊ぶ暇を作る、といふやうなことが「心のゆとり」だと思ふと、これも大間違ひであります。
 なるほど、「よく学びよく遊ぶ」といふことも、ごく単純な子供心にはわかり易い訓へでありませうが、これはうつかりすると、「遊ぶために学ぶ」、即ち「楽しみを獲るためにいやな仕事でもする」といふやうな本末を顛倒した考へ方に陥りがちであります。
「心のゆとり」は、平生何をしてゐようと必要な精神の在り方を云ふのでありまして、一方から云へば、油断をせぬこと、頭が自由に働くことであります。また一方から云ふと、何かに没頭しきることはあつても、時々は「我に返る」ことを忘れないこと、つまり、「かまけ」ないやうにすることであります。常に自分が自分の主《あるじ》であることであります。
 従つて、勉強や仕事の最中にも、「心のゆとり」といふものはなければならず、それによつて、勉強も仕事も実際に成績があがるのみならず、そこにおのづから、歓びを味ふこともできるわけであります。

 次に、「生活のうるほひ」となるものに「希望」があります。青年ならば、これを「夢」と呼んでもいゝでせう。
 とにかく、希望のないところに生活はないと云つてもいゝくらゐで、その希望が輝かしいものであればあるほど、「生活」は活気に満ち、「うるほひ」に富むものとなります。
「希望」と一と口に云つても、その種類程度は様々でありますが、いつたい、希望は、在るものではなく、作るもの、生むものだと、私は信じます。誰にしても、「希望」がないなどといふことは嘘で、若しさうだとしたら、それは、希望を作る力、生む力がないといふことになります。
「青年の夢」については、後の章で詳しく語るつもりでありますが、そもそも、「生活」のなかの希望とは、やはり、なんと云つても、正しい意味における「幸福な生活」を想ひ描き、それに一歩々々近づく可能性を信じることでありませう。
「希望」は精神のうちに棲む「不死鳥」であります。一つの「希望」が失はれたと感じる瞬間、それに代る第二の希望がもうそこに生れてゐるといふのが、溌剌たる精神の常態でなければなりません。「希望」はどんな小さなものの中からも生れます。「希望」はまた、どんな手近なところにも作り得るのです。一粒の朝顔の種が塵ともなり希望ともなるといふことを考へてみればわかります。

 それからまた、「生活のうるほひ」の一つの重要な要素は「愛情」であります。
 元来、「愛情」を全く失つた人間といふものがあり得るでせうか。私はないと信じます。たゞ、時には、「愛情の涸渇」といふことが起るだけです。人間にとつて最も不幸な現象であります。それは、愛情を受け容れ、また、愛情を表示する能力が停止した状態をいふので、一種の精神的不具であります。かういふ人物に接すると、われわれは、人間の生きてゐることの惨めさをつくづく感じさせられます。
 それほどではなくとも、戦時生活の緊張と混乱のなかでは、往々、人間と人間との接触に、平生は見られない嶮しさ、刺々しさ、冷たさが生じ易いのです。「愛情の喪失」とまでは云へませんが、少くとも、「愛情の凍結」であります。殊に、見知らぬ他人同士の間に多くそれが見られます。近いものは一層近づき、遠いものは益々離れるといふやうな傾向ですが、時によると、近いものの間でさへ、ふとした動機から、心のつながりがなくなるといふ例が間々あります。
 しかしながら、戦時生活が、今迄の赤の他人同士を、ぐつと近づけ、親しい間柄にした例もなかなかたくさんあります。都市に於ける隣組や、いろいろな団体の緊密な連絡から、それがはじまつたやうに思はれます。
 もちろん、新しい利害関係や、事務上の必要から相接近するといふやうな場合は勘定に入れないとして、戦時生活の全面に亘つて、「同胞愛」といふ問題が大きく浮びあがつて来たことは争はれぬ事実であります。
 戦線において示される勇士たちのいはゆる「戦友愛」はその典型的なものでせう。
 共に歓び共に苦しむことは、云ふまでもなく、「愛情」の最も自然な出発であり、帰着でありますが、それがためには、協同の目的といふものをはつきり互に認識し合ふことが大切であります。
 今日は、誰でも頭の中で、国家の目指すところ、国民の向ふところを、しつかりと考へてゐないものはない筈です。それが国民お互の間に、心と心とを通じて、しみじみと感じ合ふところまでいけば、国内の「戦友愛」は眼に見える形で盛り上つて来るわけであります。
 ところで、「愛情」といふものは、家族間の親子兄弟夫婦の愛から、隣人、友人のそれ、更に、職場や学校などに於ける同僚、上下の愛情に至るまで、すべて、「如何に示されるか」といふことによつて、「生活のうるほひ」に関係をもつのであります。
 愛情はあるのだが、それを示さないといふのでは、ないよりはましに違ひありませんが、どうもそれだけでは、日常生活の「うるほひ」にはならないのです。
「愛情」を深く内に包んで、平生は無愛想とも思はれる態度を示し、それが何かの機会にふと相手の心に通じるやうな言葉となり行動となつて、ひときは感動を増すといふことは、事実さうでもあり、また、甚だ日本的なこととされてゐるのですが、それも、あまり極端になつては、芝居じみてゐて、ほんたうに日本的とは云へないと思ひます。よく年
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