徳は元来「意志的」なものとされてゐるのですが、今日われわれの社会で「道徳」と名づけられ、また、「道徳」で通用してゐるものの多くは、単に「観念」や「理念」を説くことであるか、或は、「感情」の色彩の濃い表情を示すに過ぎないやうに思はれます。道徳は飽くまでも「行為」でなければなりません。仮りに「道徳」を説くことも「道徳的」だとすれば、その説くところは、少くとも、言葉として、「意志」的な響きを伝へ、「意志」としての力をもつた行為そのものでなければなりません。
道徳論が行為としての価値を問はれることになると、もはや、観念的な高さや正しさだけで満足することはできなくなります。そこには、表現の美しさも要求されませう。意欲の旺んなことも一つの条件となりませう。いはゆる知情意を貫く「誠」の現れとして、行為の人格性が問題となるのであります。
国家の危急に当つて、国民に一つの行為が要求されるとします。それは他から命令され、強制され、奨励される場合もありませうし、自らの会得によつてそれが観取される場合もありませう。是が非でもやらなければならぬことと、なるべくやつた方がいゝことと、程度から云つてもいろいろありませう。
兵役の義務、今日で云へば、戦場に赴くことは、青年男子にとつて、もはや絶対の要求であり、これを躊躇するものは一人もない筈です。
国民徴用令に応ずることも、今や、必須の国家的要請でありまして、これに対する覚悟も既におほかたはできてゐます。
そこで問題は、各職域、各地域に於ける、いはゆる翼賛運動に対する青年各自の関心と協力のしかたについてであります。これは、殆ど青年の自発的参加に俟たなければならぬ領域であります。
新しい「理念」の啓発と、瞬間的な「感情」の誘導は、政府と各職域に於ける指導者の手で、先づ一と通りの目的は達成されるのですが、強靭な「意志」の発動とその持続とだけは、青年自ら進んで蹶起し、矜りをもつて自己を鞭うち、希望と信念によつて激しく自分を引き摺り廻さなければ、断じてそのことは不可能でありませう。
苦痛を苦痛と感じる場合、常にそれがあまりに早いことを恥ぢなければなりません。それが、鍛錬の始めであります。
苦痛を苦痛と感じなくなることは、決して鈍感になることではなく、訓練によつて苦痛の種類が違つて来るのです。
こゝで私は測らずも、ある名士の意見なるものを想ひ出しました。
一つは、某高級官吏の意見で、――これからの日本人は「ハッピイ・ライフ」などといふことを希つてはならぬ。「幸福な生活」は国運を賭して長期戦を戦ふ国民とは縁のないものである。「ハッピイ・ライフ」を求めるのはもともと英米流の人生観であつて、甚だ日本的でない――といふのであります。
もう一つは、某将軍の意見で、――いつたい日本の兵隊が強いのは、いろいろの理由はあるけれども、一つには、壮丁が主に農村出身で、戦争に誂へ向きの特徴をもつてゐる。その特徴といふのは、従順と無頓着である。命令に絶対服従することと、神経が太いといふことと、これが戦場では非常に大事なことだ。殊に、都会人のやうに、汚いとか不衛生だとか、さういふ観念が薄いことが、殺風景な生活を平気で送れることになるのであつて、現在やかましく云はれてゐる農村の文化といふやうな問題も、文化を高めると云つて衛生知識を授けたり、物を綺麗に整へることを教へたりするのは、一方から云ふと、農村出身の壮丁を質的に低下させ、兵隊としての強味を失はせる結果になるのだから、その辺のことは大いに考へなければなるまい――と云ふのであります。
この二つの意見には共通の思想が含まれてゐます。それは西洋風の歪められた文化意識の否定であります。即ち、「幸福な生活」を、物質に恵まれ、安楽を主とする、事勿れ主義の平穏な生活と解すれば、誠にこの意見には同感であります。また、汚いとか不衛生だとかいふ観念が、現在の都会人のやうに、たゞ神経質にそれを嫌ひ、或は見栄だけでそれを云ふといふ風な傾向は、甚だ軽蔑すべきであります。その意味で、農村人の逞しい神経と自然な生活態度とはたしかに羨むべきものがあるのでありまして、日本の兵隊の強さの一つはたしかにそこにあることも想像できるのです。
そこで、問題を根本に引戻し、英語の「ハッピイ・ライフ」はともかく、日本語の「幸福な生活」といふものが、真に、日本人としての幸福、国民としての幸福を意味し、国運の発展と家族の繁栄と個性の伸展とを併せ望み得るやうな「めでたき生活」のことであつたならば、そこには歓喜を待つ忍耐、希望をはらむ努力、光明に満ちた献身の見事な生活図が描かれなければなりません。これをこそ、真の「幸福な生活」と云ひ得るのだといふことを前提として、私は、日本人も亦、戦時と雖も、堂々と「幸福な生活」を望み、送るべきだと考へます。
これと同様に、農村が仮りにその無頓着さのために強い兵隊を生むとして、無頓着にもいろいろあるといふことを一応吟味してかゝる必要があると思ひます。
東京のある専門学校で、かういふ面白い経験が行はれました。その学校の生徒は、概ねいはゆる「良家」の子弟で、もちろん都会児が大多数を占めてゐます。学校の教育方針として、生徒の全部が、専門の学課としてではなく、協同生活の訓練と常識の涵養とを兼ねて、農耕作の実践をはじめたのです。一番生徒を悩ましたのは糞尿操作でありました。ところが、一年もたつと、誰一人顔をしかめるものもなくなつたのです。仕事に興味をもちだしたことと、糞尿が「汚い」ものだとは思へなくなつたのです。少くとも、それを扱ふ自分の態度がはつきりして来るにつれて、不快を感ずるよりも寧ろ、これを科学的に処理する快感の方が大きくなつて来たのです。手が汚れても、それは薬品によつて「汚れ」たのと何等違ひはなく、仕事が済めば、洗ふだけの話である。必要と思へば消毒もする、これまた細菌の取扱ひと同じであります。
こゝにわれわれが明らかに察知できることは、これらの青年が、「汚い」といふ観念に於て、以前と全く違つた一つの観念を作りあげ、それが、彼等の神経を一部分ではありませうが、健康なものに復帰させたといふ事実であります。
正しい指導と訓練とが、青年の質をどの程度更へ得るかといふ実験が先づこれで行はれたと私は信じたいのです。
農村人の無頓着さは、なるほど、兵隊としての戦場生活に、ある種の強みは発揮するでせうが、また翻つて農村自体をみれば、その同じ無頓着さが、如何に多くの農村|疲弊《ひへい》の原因となつてゐるか、思ひ半ばに過ぎるものがあるのです。乳幼児の死亡率は、周知の如く、日本は世界一であり、殊に、農村がその大部分を占めてゐる実情であります。これは主として、農村家庭の「無頓着」が生む悲劇なのです。
こゝで、どうしても、「野性」といふことについて考へてみなければなりません。「野性」とは、自然のまゝの性質といふことですが、人間で云へば、都会的影響を身につけてゐない、いはゆる「野育ち」の、素朴で荒々しく、かつ伸び伸びとしたものをもつてゐることです。従つて、がさつ、粗野ともなりますが、一方、健康で、強靭なところがあります。
「質実剛健」といふことは、この「野性」と最も関係がありさうに思はれますけれども、「野性」は飽くまでも「本能的」なものであり、教育や訓練によるものではありません。それだけまた時に応じては本質としての力を発揮しますが、逆にこれを新たに自分のものにするといふことは殆ど不可能であります。
「野性」に帰れとか、「野性」を養へとか云つてもそれは無理な話で、実際は、不必要、かつ有害な都会的装飾、乃至、繊弱な文化意識を払拭せよといふ意味になるのです。
最近は、都会といふものが、事毎に槍玉にあげられ、都会そのものが国家のため無用の長物であるかの如き印象を受けます。それに比例して、農村の讃美はその生産性と結んで、今や絶頂に達した観があります。むろんその理由は十分認められますが、これが「文化」といふ問題になると、仮りに「戦争」を主眼とする立場から云つても、そこに極めて複雑な問題が潜んでゐて、さう簡単に、都会と農村の優劣を決定するわけにはいきません。また、さういふことをしてもなんにもなりません。
この「野性」の問題にしても、なるほど、英国兵は例の「ジャングル」を人間の通れない障碍物ときめてゐたといふやうなことで、日本兵の「野性」が云々されるとすれば、それは少し可笑しいのであります。「野蛮性」を好意的に、或は自己弁護的に「野性」と云ひ直すやうなことになつては、そもそも「野性」のなんたるかを解せぬ始末となりますが、戦時下の要求として、また、最近の歪められた文化的現象を是正する目的で、無暗に「野性」のみを礼讃するといふことは、これまた、一種の「掛け値」に類するものでありませう。
「野性」のもつ逞しい力は、「自然人」としての、人工に蝕まれない、風雪に堪へる精神と肉体にあるのですが、かゝる精神と肉体が、雄渾にして高雅な文化の形成と両立しない筈はなく、要するに、「野性」といふ言葉には、それ自身の価値以上に、これと対蹠的な「末期的文化」への反動的批判が含まれてゐるものと解すべきであります。
これに類した例に、今はあまり使はれませんが、かの「蛮カラ」といふ表現があり、ハイカラ、即ち気障な西洋紳士淑女風の模倣に反撥して、いはゆる「東洋豪傑」を気取る傍若無人、弊衣破帽の流儀を云ふのであります。
日本文化の風俗的な現れとしては、たしかにこの種の両極対立が屡々見られます。中道がさういふ形でおのづから保たれて来たといふ風にも見られるのであります。
言葉といふものは不思議なもので、ある思想もそれを表現する言葉の自由な解釈によつて、様々な陰翳、時とすると、思ひがけない意味まで伝へる場合があります。それ故、徒らに言葉尻を捉へて、あざとい批評を加ふべきではなく、論者の真に言はんとするところを、虚心坦懐に聴くべきでありますが、また同時に、その人の使ふ言葉は、どういふ意味に使はれてゐるにせよ、そのことが即ち、その人の思想を端的に示してゐることも亦、争はれないところであります。
現代の日本は、言葉の混乱に於ても、正に古今未曾有でありまして、同じ言葉が人によつていろいろな意味に使はれ、殊に、多くは俗世間に通用する誤つた概念でそれを用ふるといふ風ですから、よほどお互に注意して人の言葉を聴き分ける努力をしなければなりません。
この言葉の混乱、言葉の俗化が、屡々、人の思想を曖昧にし、無意識に畸形なものとし、異臭を放たしめ、これがまた、精神の健康を少からず害してゐることを認めないわけにいきません。
さて、意志の鍛錬について、最後にはつきり云ひたいことは、日本精神の理想的な現れとして、今や、特に、「武」の一面を昔通りに強調することが急務でありませう。なぜ強調しなければならぬかといふと、それは、戦ふ国民として絶対に必要であることはもちろんですが、明治以来、文明の進歩といひ、文化の向上といふ場合、「文」の字にこだはつて、「武」をこれと対立するものといふ誤つた観念が何時の間にか生じてゐたからであります。それはまた、「武」と云へば、単に「争闘」であり、「腕力」であり、「武技」であるといふ風な、限られた概念でこれを見、これを教へた傾きがないとは云へないからです。
「武」の精神については、いろいろな説明はできませうが、要するに、こゝでは、日本文化の伝統として、その「意志的なもの」の理想的なすがたを示す言葉と解したいのであります。それゆゑ、文武両道とは、職能、技術の上での区別はともかく、元来、日本人の精神能力を二つの面に分けた考へ方でありまして、「文」は主として知情の面、「武」は主に意志の面といふ風に、一応心の現れを形として両分したに過ぎず、若し、日本文化の内容が、真善美の理想を目指すものとすれば、「文武」は渾然一体となつて、その理想の表現を得ることになるのであります。
今それに気がつくことはたしかに遅いと云へば遅いのですが、しか
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