戦争と文化
――力としての文化 第三話
岸田國士
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(例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
昭和十六年の一月、即ちまる二年前、私はラジオを通じて「国防と文化」といふ題の講演をしました。
その草稿がありますから、それをまづ初めに掲げます。
[#「草稿」省略、内容は「国防と文化」(作品ID44664)とほぼ同文]
二年後の今日と雖も、私の云ひたいことは少しも変つてゐません。
そこで、この講演の主旨を、別の角度から、もつと詳しく敷衍してみようと思ひます。
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
昭和十六年十二月八日といふ日をわれわれは忘れることはできません。
大東亜戦争は、真珠湾の嵐によつて曙を告げたのであります。
宣戦の大詔勅は、熱した国民の耳に、清々しく、厳かに伝へられ、一億草莽、感動に胸ふるはせて、ひとしく、忝けなき大御心にこたへ奉らんことを誓ひました。
陸海軍の赫々たる戦果に報ゆる国民の決意は、爾来一年の間に、どういふ形で現れて来たかといふと、それはここでいちいち数へあげる必要はありますまい。政府の施策に応じて、全国民は欣然、それぞれの立場に於て、全力を尽す態勢が整へられつゝあります。
しかしながら、物事の改まるのには、おのづから順序があり、根本に触れなければ、いくら目前の急に間に合せようとしても、結局その成果が挙がらぬといふ問題もあります。
既にわれわれは、あの緒戦の目覚しい勝利を導いた陸海軍の、長年月に亘る準備と訓練とについて屡々語り聴かされたのでありますが、国民の一人々々は、果して、今後長期に及ぶべき総力消耗戦に適する資質を備へてゐるかといふと、まだまだ十分とは云へない点が多々あります。
私はこれを青年の立場から、特に文化の問題として取りあげてみたいと思ひます。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
先づ第一に、青年は男女を問はず、もつともつと心身を健康にするための努力を払ふべきです。
前にもちよつと触れたとほり、身体の健康については、その目標もはつきりわかり、健康のよろこびと必要とが身に沁みて感じられゝば、あとは、摂生と鍛錬の方法が残るだけです。しかし、精神の健康といふ問題は、軽く考へればなんでもないやうで、実は、極めて深い考察を加へなければ解決できない問題であります。なぜなら、それは、国民性並びに国民道徳の確乎たる基礎の上に樹てられた一つの方向でありまして、国家の理想、即ち国是そのものとも密接な関係があるからです。
例へば、「物の考へ方」にしても、それが健康であるかないかは、たゞ、西洋流に、「合理的」であるかないかといふやうな尺度だけでは、日本人の「物の考へ方」の健康如何をはかることはできません。それはつまり、「道理」といふ観念が、西洋と日本では既に違つてをり、西洋の道理は日本では「理窟」に過ぎぬこともあります。それと同時に、日本流の「道理」は、西洋では「純理を離れた感情問題」或は、「論理を無視した独断」と見做される場合がありませう。
そこで、「物の考へ方」の健康であるといふことは、もちろん「正しい」といふ意味に相違ありませんが、たゞ「正確」であることに満足せず、そこにもつと潤ひと力とをもたせることが、日本人の「物の考へ方」の「正しさ」になるのだと思ひます。従つて、無用の論理を弄ばず、直観に従つて時には飛躍的な結論に到達するといふやうな傾向があるのです。
しかし、一方、日本人のこの「物の考へ方」は、常に「正しい」結果を得るとは限らず、往々にして「不正確」であるがために、弱いといふ結果に陥ることがあります。論理が無用であるためには、鋭敏な直観力を必要とするにも拘らず、生憎と直観がそこまでの域に達してゐない証拠であります。
戦争といふ事実は、一般人心の上に、大きな必然の作用を及ぼすものですが、特に、戦時生活の全面に亘つて、可なりの動揺と変革とをみつゝある今日、われわれの「物の考へ方」にはどうかすると、日本人の性急さも手伝つて、「希望的判断」とも称すべき、安易な、しかも危険な要素がはひり込み易いのであります。判断は飽くまでも「正確」を期さなければなりません。その上に、希望が信念となつてこの判断を支へてこそ、日本国民の不動の決意が生れ、断乎たる行動がみられるのであります。ごく単純な一例をあげれば、甲といふ青年が、友達の乙と、ふとしたことから仲違ひをしたとします。あとで考へると、どうも残念です。仲直りをしたいが、その可能性ありやなしやについて甲は終日頭を悩まします。しかし、自分の方から仲直りを申し出ることはなんとしても自尊心が許さない。向ふからあつさり頭をさげてくれば、――もともと向ふが悪いのだから――とにかく今度だけは赦してやらう。元来、相手は弱気で、平生からこつちを兄貴のやうに慕つてゐるのだから、それぐらゐのことはしてもいゝのだ。いや、するのが当り前だ。さうだ、きつと明日あたり、頭を掻きながらやつて来るだらう。かういふ判断に到達しました。
ところが、実際は、喧嘩の動機から云つても、喧嘩のしかたから云つても、甲の方にどうもよくないところがあり、乙はいはゞ被害者であつて、恨み骨髄に徹してゐるといふ有様なのです。だから、絶交を宣告したのは甲だけれども、乙はむろんそれこそ望むところであつて、仮りに、どんなことがあらうとも仲直りなどはしない覚悟でゐます。
甲はかくして惜しい友達の一人を失ひます。
これはもちろん、甲の反省が足りないところに最も大きな欠陥があるのですけれども、その反省こそ、事実の正確な判断を基礎として行はれなければならないのでありまして、この場合、甲の「希望的判断」が、その反省を鈍らせ、事態を収拾すべからざるものとするのであります。
「物の考へ方」について、もうひとつ、日本人の陥り易い傾向は、「一を聴いて十を覚る」の明察が、その形のみで実質は伴はず、「一を見て十と思ふ」錯覚を生じるといふことです。これを私は「思考力の凝結」と称したいのでありますが、何事によらず、その一面をみて全体を見きはめたつもりになること、或は、一つのことを考へると、それに頭をとられすぎて、ほかの必要なことすらもう考へられなくなること、を指すのであります。
これまた常に、理性と感情と意志とが別々でなく、必ず一体となつて働く極めて自然な状態から生れる結果とは云へません。この三者が三者とも円満に発達してゐることを条件として、これこそ尋常な精神活動と云へるのでありませうが、感情や意志に比して、脆弱な、或は、怠慢な理性であつたならば、その結果は、当然、判断の狂ひ、「物の考へ方」の不正確といふことになるのです。
一事を考へつめるといふこと、物事の一点を凝視するといふこと、一念を凝らすといふこと、それはそれとして、必要なこともあります。必要どころではない、それができるといふことは一つの強みでさへありますが、それがために、ほかに隙ができ、その隙に乗ぜられるやうなことがあつては、これこそなんにもなりません。
例へば身体の鍛錬が必要だとなると、なんでもかんでも鍛錬で、ほかのことはどうでもいゝといふ風になり、甚だしきは、健康を害するやうな始末では誠に困つたものであります。
競技のやうなものでも、団体の対抗試合とでもなると、もう「勝負」といふ一点に「考へ」が集中してしまひ、勝つた方は「どんなもんだ」といふ顔をし、負けた方は口惜しがつて泣くなどといふ現象は、抑も競技の精神を没却したものであります。
この傾向はまた、人物の観察、評価のうへにも度々現れます。「一事が万事」とは昔から云はれてゐる言葉でありますが、これは諺であつて、それが当てはまる限界といふものがあります。ところが、これを人の一言一動に移し、その全貌を批判するのは甚だ軽率で、若し、敢てそれをするならば、自ら悔いないだけの信念をもつてすべきです。買ひかぶり、見損ひ、いづれもその罪は我にあることを知れば、徒らな警戒よりも、人を視る正しい眼を養ふ訓練こそ、青年の最も心掛くべきところです。
すべて精神の不健康は、なによりも知情意の不調和、不均衡から生れます。従つて、如何に「健康な道徳観」を口にしても、それが知識である限り、それだけでは精神の健康を保証することはできません。例へば、その理論が猥りに排他的なものであつたり、押しつけがましかつたり、衒ひがあつたりするやうでは、その人物の精神活動そのものは、どこか偏したところがあるか、欠けたところがあるかでありまして、さういふ人物は、或は憐憫の情に於て薄く、或は危急の場に於て、不覚を暴露するといふやうな精神的弱点をもつてゐさうに思へます。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
日本人は、その日常の行動からみても、また近頃、例の血液型の統計の示すところによつても、欧米人等に比して、著しく「感情的」であるとされてゐます。
感情的であるといふことは、二様の意味にとれますが、感情が豊かで鋭く、その点に於て絶対的に優れてゐるといふ意味と、理性乃至意志に比して感情が強く、一種の不均衡状態にあるといふ意味とであります。
この二つの意味は、それぞれ日本人に当てはまると思ひます。前者は大いに自信をもつてこの長所を益々発揮すべきでありますが、後者はよほどの注意を払つて、成し得ればこれを是正することに努めたいものです。
国民士気の昂揚が、とかく感情の上では成功と考へられながら、意志の現れとしては、まだまだ完全にその成績を挙げ得ないといふのは、こゝに原因があると思ひます。
しなければならぬと教へられゝばわかる。で、国のためとあれば、したい気持だけはいつぱいにもつてゐる。だが、実際にそれをやり遂げるために、まだ何かが足りないといふところが往々みえます。その足りないのは、「意志」の力だと私は信じます。
やればできる力をもつてゐながら、なかなかやらうとしない一種の引込思案、乃至は億劫がり、右|顧《こ》左|眄《べん》、いづれも、「意志」の栄養不良、動脈硬化、関節不随であります。
「熱し易く醒め易い」などと云はれるのは、戦ふ国民として、敵をして乗ぜしめる最大の隙でありませう。
「意志」の鍛錬は、幸にして、感情の豊かさ、鋭さに俟つところが大きいのでありますから、日本人の一方の特性は、他の弱点を補ふことはできぬとしても、これを矯め直し、鍛へあげるための、最も有力な条件となります。
「愛国心」の如き、「自尊心」の如き、「競争心」の如き、「義侠心」の如き、いづれも主として感情的な日本人の心理の現れでありますが、これこそ、「勇気」とか「忍耐」とかの如き意志的な行動の根柢となり得るものでありますし、要はその持続性の問題であります。
「斃れて後已む」と言ひ、「石に噛りついても」と云ふ、あの意気と頑張りは、本来、訓練によつて十分日本的な性格となり得ることを忘れてはなりません。
困難を困難として堪へ難く思ふといふことは、決して感情の鋭さではなく、寧ろ感情の過剰であり、放恣であります。この感情に引き摺られて挫折する意志といふものは、必ずその弱さを弁護する口実を作るものです。これには一種の理知が働くわけで、しばしば、意志の敗北を理性の勝利と見做したがる風習が生じます。「諦め」の名による逃避がそれであり、「分別」の名による「ごまかし」がそれであり、「控へ目」の名による無為がまたそれであります。
「意志」の力は、それゆゑ、まづ何よりも、正しい道義観と素直な頭の働きを土台とし、更に豊かな感情の発露と相俟つて、はじめて、誤らざる方向に向つて推し進められるのでありまして、さて、その力が強大であることと、持続性をもつこととはどうしても鍛錬による自信を必要とするのです。
道
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