配の男子などが、家族その他に対して優しい顔を見せまいとするのは、「愛情を小出しにしてはならぬ」と自ら戒めてゐるわけで、その心持はよくわかるのですが、どうかすると、それを口実に、自分以外への無関心を自ら省みないこともあり、また、威厳といふことを履き違へてゐる場合もあるのであります。
 たしかに、「愛情」の問題は微妙を極めてゐます。浅薄な愛情の氾濫は、もちろん人間の生活をふやけさせます。しかし、かたくなな愛情の拒否も亦、生活を寒々とした、うるほひのないものにします。
「愛情」の素直な、或は適度の表示といふことは、人間の本性に基く欲求であり、また、訓練による「嗜み」でもあるのですが、これは、口で云ふほど、た易いことではありません。多くの場合、その表示は、不自然であつたり、程度を超えたり、不十分であつたりするものなのであります。
 さういふわけで、「愛情」の表示には、それ相当の技術がいるとまで考へられてゐます。悪い意味の技巧は、「愛情」を不純なものとし、受け容れる側の反撥を買ふことはもちろんでありますが、示すべき愛情を、それだけのものとして、十分に、自然に相手に感じさせる方法は、なるほど、一種の身についた技術と云へるかも知れません。技術といふ言葉が気に入らなければ、「たしなみ」といふ言葉を、こゝでも使つていゝと、私は思ひます。
 家庭生活の「うるほひ」は、主として、家族間の「愛情」の自然な発露に求めることができますけれども、私が特に青年諸君の注意を喚起したいことは、職場や学校などの集団生活、わけても、勤労の時間に、同僚や先輩長上に対して、不必要に「無愛想」な表情を示さないこと、言ひ換へれば、「戦友愛」の自然なすがたが、せめて「眼附」や言葉の調子にだけなりと示されてほしいといふことであります。
 近頃、「商業道徳」といはれるものの一つに、客あしらひの問題が数へられてゐます。「売つてやる」といふ調子の横柄さ、突慳貪な客扱ひは、流石に誰の眼にも余るとみえ、商人の自戒を求めたものと思はれますが、これなども、同胞に対する愛情がないとは云へないのでありまして、まさしく、他の感情のために、それが押しのけられ、客の方に通じなくなつてゐるのです。

 そこで、この「愛情」の表示を最も自然ならしめ、適当ならしめるためにも、古来、人間には「礼儀」といふものが考へられてゐるのであります。
「礼儀」は、社会の秩序を保ち、人間の品位を高めるものでありますが、それと同時に、「敬」と「愛」とは二にして一なのでありますから、「愛情」そのものの秩序をも規定するひとつの形式とみることができます。
 その意味で、「礼儀」はまた、「生活のうるほひ」に欠くべからざる要求であります。
 極く最近までの一時代を顧みてみますと、「礼儀」を形式にすぎずと云つて軽蔑する傾向がありました。礼儀そのものを排斥したのではありますまいが、礼儀と称せられる昔からの形式を、時代にふさはしくないものとして度外視しようとするところから起つた行過ぎでありませう。
 心に礼あればおのづから形に現れるといふ理窟に間違ひはありません。
 ところが、実際は、形に礼なければ心おのづから礼を失ふ結果になるのであります。
 こゝで一つの例を挙げれば、日本人は非常に含羞《はにかみ》やである、照れ屋である、と私ばかりでなく、多くの人は認めてゐます。昔からさうだつたとすれば、これは国民性、民族性のどこかにその原因があるのですが、ちよつと明確には云へません。多分、自尊心のひとつの現れではないかといふことは、次のことでわかると思ひます。とにかく、現代の日本人は恐しく照れ屋でありまして、殊に、若い人々、わけても教育ありと自他ともに任ずるものほど一般に甚だしいやうです。照れ屋である結果は、なんでもないことを照れ臭がります。殊にそれが目立つのは、人前に出て、いはゆる「改まる」時、人が見てゐる前で、何かをしなければならない時です。
「含羞む」といふことは、子供ならばごく自然で、極端な「人見知り」を除いて、大いに可憐さを増すものでありますし、青年と雖も、ある程度の、そして、素直な「含羞」は、見てゐて決してわるいものではありません。むしろ、それは純真そのものを語るとまで云へるのですが、その「含羞や」が、度を越えて「照れ臭がり」となると、よほど趣きが違つて来ます。
 これはもう性格の歪みと云ふべきものでありまして、その根柢には、蔽ふべからざる自尊心の病的な膨らみが観取されます。そして、照れ臭がる場合の心理のうちには、必ず、自ら「ぎごちなさ」を意識し、その「ぎごちなさ」が、人のせゐではなく、自分に何かが欠けてゐるためだといふことを、おほかたは気づかぬ状態が発見できるのです。
 その「欠けてゐるもの」とは何かと云へば、人と接する技術、つまり、「作法」であります。
「作法」を知らぬ、また知つてゐてもまだ身についてゐないことから生じる中途半端な誤魔化し、それによる思はぬ失態、相手との間の空隙、することが不器用に陥るもどかしさ、それを予め感じれば感じるほど、神経が昂ぶり、頭が乱れ、筋肉が硬ばるのです。
 自然であらうとすればするほど不自然になり、うまく切抜けようとすればするほど、つかへつかへするじれつたさはどうすることもできません。
 そこで、その「ぎごちなさ」を嗤はれないために、またそれを逃れるために、今度は、意識的に、つまり、わざとさうしてゐるのだといふ風に虚勢を張ることになります。もともと「作法」などは眼中になく、まして人の思惑など気にはしないといふところを、言葉や動作で示さうとします。それほどまでにしなくてもと思はれる青年の「無作法」は、屡々かういふところから生れるのであります。
「照れ臭がり」は、それで自分だけはなんとか救はれた気でゐるでせうが、実は、これほど、あたり迷惑なものはなく、世の中を殺風景にするものはありません。一人の照れ臭がりの息子がゐると、家の中はまことに面倒になります。なぜなら、さういふ息子は、不思議なほど親に突つかゝり、弟妹に邪慳な素振りをみせ、愉しくても愉しい顔をしないのであります。
「作法」とは決して、固くるしい行儀や丁寧な言葉使ひだけを指すのではありません。時に応じ処に臨んで、最も適切な、最も円滑な自己表現をなし得る技術なのであります。
 対人的には、それは「礼儀」の様々な形式ともなります。「愛情」の表示にも亦この「作法」に類する形式があることを忘れてはなりません。
 われわれの「生活」は、この「愛情」を感じ合ふといふことがなかつたならばそれは如何に、味気ない、かさかさしたものでありませう。

[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]

「生活のうるほひ」は、次に、「趣味」からも生れます。
「趣味」とは、こゝでは最も広い意味に使ひますが、言ひ換へれば、「ものの美しさを味ふこと」であります。昔は「風流」とも「風雅」とも云ひました。この「風流」「風雅」は、いくぶん、閑人の、世間離れのした「遊び」に近いやうなところもありますから、今の時代にはそのまゝ通用しませんけれども、日常の生活のなかに、生活を通じて、人間、自然、物事のそれぞれに、「美しいところ」を発見し、これを味ひ、これに親しむ心を絶えず目覚ましておくことは、人間としての「生き甲斐」の一つであり、生活に「うるほひ」を与へる肝腎な要素であります。
 由来、日本人は、この点にかけては、世界のどの民族に比べてもひけはとらない筈でありました。ところが、近来、さういふ特長がだんだん失はれて来たのではないかと思はれる節があります。
「美しい」といふことが、往々「贅沢な」といふことと混同されるのは、「ほんたうに美しいもの」と、「美しく見せかけたもの」との区別を弁へないところから来るのでありまして、「ほんたうに美しい」ものは決して「贅沢な」ものではありません。「美しい」といふことの本来の意味は、「飾り」ですらなく、物自身の清く磨かれた自然のすがたにあるのであります。
 人間の心や行ひの美しさ、その容貌姿態の美しさはもちろん、自然の美にしても、また、芸術の美しさ、国土や歴史の美しさ、生活の美しさ、いづれも、それは、見せかけや装飾ではありません。
 ほんたうに美しいものを美しいと感じる力があつて、どういふもののなかにも、美しいところがあることを見出し、それを深く味ひ、自分もまた、生活の隅々で、「ほんたうに美しいもの」を生み出す工夫と努力をするといふことは、われわれの祖先の生活を比類なく美しいものにしたのであります。
 そして特にわれわれが知るべきことは、さういふ美しい生活の形式と内容が、誰の考案といふこともなく、長い年月のうちに、時代々々の趣きを加へ、築きあげ、鍛へ、磨かれて来て、はじめて完成の域に達したといふ事実です。これは、さういふ生活を土台として生れた芸術についても云へることで、日本の美は、一人の天才がこれを創り出したといふやうなものは少く、殆どすべては、歴史そのものが、ある時代といふ「天才」の力を得て、無名の傑作、天衣無縫の名品として、この国に与へたもののうちに宿つてゐるのです。
 われわれは先づ、それゆゑに、日本の伝統のうちにこそ、真に日本的な「美」を発見すべきです。一つ一つの物の形に囚はれず、その形を生み出した精神に触れることが、伝統の神髄をつかむことです。それと同時に、「新しい美」の正しい味ひ方をも会得しなければなりません。建築、美術、音楽、文学、演劇、映画などを通じ、新しい時代を呼吸する「美」について、理窟の上でなく、感覚と情操の力で、十分の見分けができるやうに訓練を積むことが必要です。
「美しいもの」を味ふといふことは、なんと云つても「芸術」を媒介とするに如くはありません。
「芸術」は芸術としての独自の意義と使命をもつてゐます。「芸術」に親しむといふことは、単に、「生活のうるほひ」に資するためではありません。「芸術」の創作はもちろん、これをほんたうに鑑賞するためには、非常な修練を必要とするのですから、すべての人にこれを求めることは無理だと思ひます。しかし、どんな芸術でも、それが実際に傑れたものであれば、何らかの意味で人の魂を打つのであります。芸術の浄化作用によつて、人は精神的に高められ、そこに意外な中毒作用さへ起さなければ、生活もおのづから美化されて来る筈であります。
「芸術」の中毒作用とは、芸術と生活とが離れ離れになり、芸術に親しめば親しむほど、生活が乱れ、荒み、空虚になることを指します。さうならぬためには、日本人としてのしつかりした「生活観」と、健康な芸術を選んでこれに親しむ態度とが必要であります。

「芸術」に限らず、とかく、「趣味」といふものは、前章でも述べたやうに、「道楽」と紙一重でありまして、凝り方によつては、どんな趣味でも、不健全な結果に陥ります。それはもう、「美」を求める域から脱して、「快楽」を追ふ領分にはひるからであります。「生活」そのものに理想なく、日常の「生活」を俗事の如く考へ、「仕事」は衣食の資を得るためと見做す、かの似而非通人の、もつて誇りとする「趣味」を、私は極度に排斥します。
 青年にあつて、特に、「生活」を軽視し、却つて怪しげな「趣味」などをひけらかすのは、その動機や理由はどうあらうと、甚だ「悪趣味」だと思ひます。
「趣味」は繰り返していふやうに、「生活」から離れて、或は、「生活」の一隅に、ぽつりとあつてはならぬものです。「趣味」によつて養はれた「美を味ふ心」は、必ず、「生活」の全面に浸み渡らなければなりません。
 文学のわかる青年が、家庭に於て、「親心」を解せぬといふわけはなく、音楽を好む青年が、扉の開けたてを乱暴にするのは大きな矛盾だといふことに気がついてほしいのです。
「美」を愛し、味ふ心は、日本人として当然深く養はなければなりません。これが、戦時の生活に必要な「うるほひ」を与へるでありませうが、この「美」といふものは、決して、それだけを愛し、味はへば足りるといふものではありません。事実、「美」を尊び、これを至上なもの
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