くてもいゝのに改まりすぎたり、小人数の会合で大声を張りあげたり、人の喋る時間がなくなるほど長談議をしたり、罪もない参会者の一人を序でに槍玉にあげたり、可笑しくもない洒落をひとりで悦に入つたりといふ図は、いかにもその人の「嗜み」のほどが察せられるのであります。
議論といふとすぐ喧嘩腰になるのも、議論の目的を履き違へた「不嗜み」であります。論争とか討論とか云へば、相手の主張を理論的にも破砕し、飽くまで彼我の立場を正邪によつて分つべきでありませうが、普通、相談事や、衆智を集める意味での協議会、座談会などで、多少考へが違ふからと云つて、いきなり喰つてかゝるやうな剣幕で相手の説を論難攻撃し、またそれとは逆に、人が少し強く反対でもすると、やにはに血相を変へ、憂鬱になり、あとは拗ねて口も利かぬといふ独りよがりの態度は、まつたく、議論といふものを「勝負」とのみ考へ、長短相補ふ合議の精神を無視した、許すべからざる狭量さであり、少くとも日本的な「嗜み」に反するものであります。
近頃、「日本的」といふ意味が、どうかするとたゞ「一途な」、「理窟ぬきの」言動を指すやうに誤解されてゐないでもありません。
「一途な」といふことは、時によるとまことに美しく、屡々人を駆つて大きな働きをさせることもありますが、それはたまたま正しい道に向つてのことであつて、「理窟ぬき」が、飽くまでも「理を超えた真理」を主観的につかんだ時にのみ行為の価値を生むのと同様であります。そして、正しさを胸で感じ、真理を鼻で嗅ぎとるといふやうな「離れ業」を易々となし得る日本人の能力は、やはり、練りに練り、磨きに磨いた祖先の遺風、「嗜み」を身につけて始めて十分に発揮されるのであります。
臆病なものには我武者羅になれと云ひ、神経質なものには図太くやれと、激励叱咤するのは、あながちわるいとは云ひません。しかし、それを文字どほりに振りまはして、純乎たる中正の道を閉すことは、われわれ日本人の敢てとらざるところであります。
戦ふ国民としての覚悟と気魄とは、決して肩を怒らしたやうな強がりや、自制を失つた大言壮語によつて示されるものではありません。
「ゆかしく、凜々しく」とは、私が、つとに日本精神の表情として、自ら訓へとし、試みに人にも示した言葉であります。
日本人の「嗜み」が若し、日本人らしき心の様々なすがただとすれば、それは、男女の
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