青年の矜りと嗜み
――力としての文化 第四話
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)恃《たの》む
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しん/\
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
矜りとは自ら恃《たの》むところがあることであります。これさへあれば、何ものも怖れずといふ信念です。自負と云ひ、自尊と云ひ、いづれも、己をもつて高しとする精神でありますが、これはむしろ、相手に向つて自分を譲らないことで、いはば競争心の現れであります。しかし、矜りと云ひ、矜持と云ふのは、どちらかといへば、自分自身に対して、しつかりした信頼をもち、いやしくも自分で自分を辱かしめないだけの、ひそかな自信を胸にたゝんでゐることであります。
よく云はれることですが、自尊心といふものは、どうかすると、野蛮人や弱小民族の方が余計にもつてゐて、他から軽蔑されることを極端に気にするあの心理に通じます。これを劣等感のひとつの現れとみるのです。
ところで、さうとばかりは云へません。元来人並以上のものをもつてゐるにはゐるが、それを、たゞもつてゐるだけでは満足しないで、機会ある毎に人に認めさせようとするものがある。これが自尊心、自負心となつて現れます。最もひどいのが「己惚れ」であります。
かういふ人物は、自分を実力以下にみられるといふことが、堪へられない苦痛なので、普通、「負け嫌ひ」と云ふのがこれです。それが露骨に言動のうへに現れると、いさゝか滑稽味を帯びて来ます。それが「負け惜しみ」です。蔭で人が嗤つてゐるのも気がつかぬ有様であります。
自尊心は、以上のやうな場合を除いて、ほんたうに自分の名誉を保ち、面目を傷つけられないために、敢然と己を主張するやうな時、それは立派な行為となつて示されます。
これは、おなじ自尊心でも、矜り、または矜持と称して差支へないものです。
矜りとは、飽くまでも、自分の実力と真価について正しい認識をもち、しかも、ある大事な一点で何人にも負《ひ》けを取らぬ自信と、その自信が自分に与へられた光栄とを深く心に秘め、如何なることがあらうとも物に動じない覚悟ができてゐることであります。
木村重成が一茶
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