に通じます。多くは「八面玲瓏」の油断のならなさ、「八方美人」の頼りなさが誰の眼にもそれと感じられ、もうそれが感じられるだけで、その人物は、それだけの人物だといふことがわかるのであります。
更にもうひとつ注意すべきことは、「嗜み」の消極的な一面、即ち、「羽目を外さぬ」といふ面だけをみて、それなら、結局、「尻尾を出さぬ」といふこと、「猫をかぶる」といふことではないかと考へるものがあるかも知れませんが、それは大きな間違ひです。なぜなら、最初にも云つたとほり、「嗜み」とは、「矜り」の現れでありまして、他人の前をつくろふ精神とはおよそ正反対なものであります。周囲との調和といふことも、周囲によりけりであることはもちろん、苟くも常におのれを屈して忍ぶべからざるを忍び、自己の保身のために妥協を旨とするやうな意味は絶対にないのです。
どの程度を忍び、どの程度を譲歩すべきかは、日常絶えずわれわれに迫つて来る問題ですが、この処理は、概ねその人の性格と「嗜み」とを示すものでありまして、いはゞ、社会生活を通じての興味ある自己訓練であります。
主張すべきことを主張し、貫徹すべきことを貫徹する断乎たる態度は、威あつて猛からぬ風貌挙止とともに、日本人の「嗜み」として最も尊重せらるべきものであります。
時と場所柄とを弁へぬといふ点では、堂々と自己の所信を述べるべき場合であるにも拘らず、徒らに遠慮また躊躇して、その機会を逸してしまふやうな例が少くありません。特に、それが勇気を欠くためとあつては、まことに「嗜み」のない話であります。かういふ際、よく、喋るのが嫌ひだからとか、下手だからとかいふ遁辞を用ひるのですが、これもよく考へてみると、喋るのは必ずしも、好きだから、上手だから喋るのではない――さういふ人もあるにはありますが――人間に言葉が与へられてゐる以上、人に向つて言ふべきことをはつきり言ひ得るといふのは、われわれの当然の「嗜み」であらうと思ひます。
ところで、かういふ私の配慮が、一般にはまつたく無用と思はれるほど、如何なる時、如何なる場所でも、必ず、一席弁じないではゐられない人々が近頃はなかなか多いのであります。みんなが演説に慣れて来た時代とでも云ひませうか、しかし、それにしても、「時と場所柄とを弁へた」演説、議論といふものは、なかなか少いものだといふことを私は痛感してゐます。さう改まらな
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