も、大きな誤りでありました。
昔は、わざわざそんなことを云ふ必要のないほど、指導者には、指導者らしい「嗜み」があつて、その「嗜み」がそのまゝ、「躾け」の効果をあげてゐたのだと思はれます。
今はちよつと、さうは行きかねるやうなところもあるのですから、もう一度、「躾け」の方法といふものを考へ直してみなければなりますまい。
この点、軍隊における「躾け」は、国軍の威容と品位といふことに巧みに結びつけた、非常にはつきりした方法がとられてゐるのです。わが陸海軍軍人が、その実戦能力の卓抜さに加へて、それぞれの風格を発揮した「嗜み」によつて、国民に親しまれるのは、実に、その結果であらうと信じます。
[#7字下げ]一一[#「一一」は中見出し]
時と場所柄とを弁へることが「嗜み」のひとつであるといふことは、「嗜み」なるものが、決して型にはまつた、融通の利かないものではないといふ証拠なので、何時も「他処行き面」をして取澄してゐることが「嗜み」であるなどと考へてはなりません。
締るときには締り、寛ぐときには寛ぎ、常に自然のうちに周囲との調和を保ち、その言動に聊かも狂ひのないことがその眼目であります。
それゆゑ、豪放と云ひ、磊落と云ひ、洒脱と云ひ、その性格のおのづからな発露である限り、それは一種の魅力でこそあれ、その性格のために「嗜み」がないと云はれる理由は毛頭ないので、たゞ、その性格が、やゝもすれば誇張を伴ひ、自己陶酔に陥る危険がなくもないので、さういふ場合は、得て俗にいふ「脱線」となつて、羽目を外すことになります。それも亦、時によつては愛嬌ですまされますが、その程度と場所柄によつて、他の顰蹙を買ふのであります。
これに反して、生真面目な、物事を慎重に考へるといふ風な性質の人物が、往々、座興の席でひとり苦虫を噛みつぶしたやうな顔をしてゐたり、さもなくても、人の戯談にすぐ腹を立てたり、突然固苦しい話題をもちだしたりして、座をなんとなく白けさせることがあります。これも「嗜み」の問題で、心が練れてゐない結果であります。
しかしながら、こゝで注意すべきことは、いはゆる「八面玲瓏」殊に「八方美人」といふやうなことが必ずしも「嗜み」ではないといふことです。これはむしろ「性格」そのものでありまして、訓練によつて磨かれた「勘」ではなく、この「性格」はどうかすると、「老獪」または「軽薄」
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