るのです。「親切」といふ言葉は誰の耳にもはひり易いので、さうしたのに違ひありませんが、どうも「含み」が足りません。親切の押売りは、やゝもすると、日本人の好みに反した「わざとらしさ」に終るからであります。人に親切にする前に、自分の「嗜み」として、自らの矜りのために、当然なすべきことが、そこでは取りあげられてゐるからであります。
例へば、乗物のなかで、若い元気なものが席を立つといふが如き、それは若いものの「嗜み」に過ぎません。決して「親切」などといふ道徳めいた色合で塗りあげなくてもよろしいのです。
商人が無愛想になつたといふ。誠に困つたことでありますが、これも、客の方が卑屈で図々しい以上、無理もないことです。そこで、商人も客も、それぞれ相手のためにどうかうといふ前に、まづ、自分自身に対して恥かしくないかどうかを反省してみるべきです。「矜り」の失はれたところからは、決して、高い道義は生れません。「礼」の精神も亦、本来、自らを持する「嗜み」の深さであります。徒らに相手の歓心を買ふことではありません。
時と場所柄とを弁へるといふことは、社会の一員として生きる自覚と、それがための幼少からの技術的訓練とによつて、ひとりでに出来上つた感覚を指すのであります。いちいちその場に当つて頭を使ふといふやうな性質のものではありません。
でありますから、これはどうしても、長い間の躾けによるほかはないのであります。
この躾けは誰がするかと云へば、申すまでもなく、家庭では両親、殊に母親、それから少し可笑しいやうですが、夫のある種の躾けは細君がやらなければいけません。現にそれは、いろいろな形でやられてゐるのであります。
学校では、教師がその役をつとめます。時によると、上級生乃至は同僚の手を煩はさなければなりますまい。
社会に出ると、社会そのものが目附役でありますが、その時はもう遅い。大小の差はありませうが、それはもう失敗、失策といふレッテルを貼られます。ある組織のなかでは、指導的な立場にある人の、かういふ点までの指導が是非なくてはならぬと思ひます。
今まで、この「躾け」といふことが、とかく七面倒くさい、窮屈なことばかりを強ひられるやうな印象を与へがちであつて、そこに、人としての魅力、品位がつくものだといふ、おのづからな矜りを伴はせるやうなやり方が忘れられてゐたことは、なんと云つて
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