の言葉を、何時、何処ででも遣ふといふことになると、それは滑稽であります。つまり、「嗜み」がないといふことになる。
行儀作法、言葉遣ひを含めた人間の行動の規準は、めいめいが己れの「矜り」を保つといふところにあるのは当然として、その「矜り」が、社会生活を最も秩序あるものとし、人と人との関係を常に円滑に運ばせるやうなものであることが絶対に必要であります。
自分の「矜り」が、他人の「矜り」を傷けるやうな場合が仮りにあるとしても、それが不必要に、不用意になされてはならないのであります。まして、他人の矜りを傷つけることによつて、自分自らの「矜り」を失ふといふ結果も往々にしてあり得るのです。米英両国の今日は、まことにその好適例のやうに思ひます。
時と場所柄とを弁へぬ「不嗜み」は、いはゆる躾けのわるさにもよりますが、一方、「思ひ上り」から来るのであります。
米国人の「がさつ」なことと、英国人の「人を人とも思はぬ」傲慢さは、既に譬へ話になるほどの世界の定評でありますが、われわれ日本人の古来、それによつて比ひなき「ゆかしさ」を示した謙虚の美風も、今はどうなつてゐるのでありませう。
時と場所柄とを弁へないために、相手の感情をそこね、一座の空気を白けさせ、纏る詰も纏らないやうにしてしまふ例を、私は屡々私の周囲に見るのであります。公の場所では、その例が特に目立ちます。最も「嗜み」がなければならぬ指導階級の人々で、「嗜み」を忘れた言動を敢てする結果、これに対する軽侮と反感が一般に生じてゐる例も間々あります。
およそ、人に対する尊敬と信頼とは、その人の「考へてゐること」に対してではなくて、その人の「すること」と「言ふこと」に対してであります。如何に立派なことを考へてゐても、人前で「嗜み」を欠いた、つまり、人としての矜りを自ら棄て去り、人としての魅力を台なしにするやうな言動を平然として示すならば、それはもう、指導者としての資格を失つたものと云はざるを得ません。
われわれ一般国民の相互信頼も一致協力も、また、われわれ一人々々の、時と場所柄とを弁へた「嗜み」ある言動によつて、多くはその実が挙げられるといふことを、今こゝで、深く考へなければならないと思ひます。
近頃、「親切運動」といふやうなことが提唱され実践されてゐますが、私は、これがつまり、「嗜み」の復興を目指した運動だと解してゐ
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